2025年8月29日金曜日

ザ・フー ライヴ・アット・キルバーン1977

猛暑日。TOHOシネマズ日比谷ジェフ・スタイン監督作品『ザ・フー ライヴ・アット・キルバーン1977』を観ました。

「1年ぶりのライブだから、どうなることやら」というロジャー・ダルトリー(Vo)のぼやきとともに1965年のデビューシングル曲 "I Can't Explain" でステージが始まる。

ロンドン北西部キルバーンのキャパ800名の映画館ゴーモントステイトで1977年12月15日に開催されたライブは、スタイン監督により制作中だったバンドのドキュメンタリーフィルム『キッズ・アー・オールライト』に最新の演奏シーンを入れるためのもので、当日朝にキャピタル・ラジオで告知された。

機材トラブルでお蔵入りしていた幻のフィルムが今世紀に入って発掘されたということで、実際にピート・タウンゼント(Gt)が序盤に自身のHIWATTのアンプヘッドを押し倒し「最悪だ、撮影する意味がない。カメラマンに帰ってもらおうか」とマイクに向かって言うシーンもカットされずに残っています。野次を飛ばす客を「大口を叩くクソガキども、俺のギターを奪ってみろ」と挑発する。

生涯最期から二番目のライブとなったキース・ムーン(Dr)は、アナログシーケンサーで同期する "Baba O'Riley" "Won't Get Fooled Again" では律儀にヘッドホンを着用しているが、全体的にミスが多い。ロジャーは代表曲 "My Generation" で歌詞を飛ばす。怒り心頭なピートにしてもフレーズがもつれるのに、撮影を意識してアクションだけは終始キメまくる。そしてひとり淡々と責務を果たすジョン・エントウィッスル(Ba)。

そんな問題だらけの演奏なのに、だからこそ、技術や完成度だけではないロックの魅力が詰まったライブです。The Whoはこのときデビューから12年、スタジアム級になったバンドの30代前半の4人のメンバーがフレッシュな初期衝動を保っているのを奇跡と言わずしてなんと言おう。

おそらく当時最新のレーザー光線でエンディングを迎え、映画用に4人がステージで肩を組むが、ブラックトップのレスポールデラックスを投げ捨てたピートに笑顔はない(キースは満面)。9月26日公開の『キッズ・アー・オールライト』がますます楽しみになりました。

 

2025年8月24日日曜日

ノラバーお昼の生うたコンサート&デザートミュージック

猛暑日。二週続けて西武柳沢へ。『ノラバーお昼の生うたコンサート&デザートミュージックマユルカとカナコの回に行きました。

1曲目はノラバー店主ノラオンナさんの楽曲「僕のお願い」。昨年11月のノラさんのトリビュートライブ『とまり木にて7』で披露されたカバーですが、一度きりのイベント用のアレンジが再現されるのは、マユカナさんとノラさん、両者のファンとしてとてもうれしい。

「僕のお願い」のコーダに添えられた控えめな二声のフーガを引き継ぐかたちで2曲目の「流浪の日々」はカナコさんが全編ハモる二声のしりとり歌で、ここからはすべてmayulucaさんのオリジナル曲。「夜明け前」の高速スリーフィンガーとゆったりした歌唱旋律の共存、「幸福の花びら」の協和と不協和音を往復する半音下降など、ナイロン弦に張り替えたmayulucaさんの正確且つスリリングなギタープレイを聴覚的にも視覚的にも間近で堪能しました。

mayulucaさんとは同じ大学の1年先輩にあたり、舞台女優としても春先に観た『ガラスの動物園』のローラ役が印象深かった西田夏奈子さんのヴァイオリンとコーラスが、がっちりした骨格とおおらかさを併せ持つmayulucaさんの音楽に澄んだ広がりを加えます。

アネモネ」のスキャット、「月の下、僕はベランダに」では風鈴や巻き尺などで客席も参加し、元来パーソナルな手触りのあるmayulucaさんの音楽の一部になれるのが楽しい。

前週のChiminさんの回に引き続き遅めのお昼のメニューは、季節の野菜と果物のサラダノラバーさわやかポークカレーです。デザートタムにほろ苦いカラメルソースが大人味のノラバープリンノラブレンドコーヒーノラさんの丁寧な手仕事は二週続けて食べても食べ飽きない。どころか新たな発見があります。

Instagram配信ライブのデザートミュージックは「今を生きよ/過去を抱いて/過去を慰めて」と歌う、出来立ての新曲「空ばかり見ていた」から始まり、6/15(日)の僕のノラバーライブにいらしたカナコさんにお声掛けいただき、「都市計画/楽園」をマユルカさんのギターとカナコさんのヴァイオリンに乗せて朗読させてもらいました。この3人で同時に音を重ねるのは、池ノ上ボブテイルで開催した『マユルカとカナコとタケシ』以来6年ぶり。とても気持ち良かったです。

 

2025年8月21日木曜日

ChaO

猛暑日。ユナイテッドシネマ豊洲青木康浩監督作品『ChaO』を観ました。

20XX年の上海。新米記者のジュノー(太田駿静)はアイドルの取材に遅れそうになり、路線バスの窓から人魚専用の空中水路に飛び乗る。水圧に押し流され吐き出された埠頭で荷物の積み下ろしをする男が、ジュノーが子どもの頃から愛読している『人間と人魚の交流史』で紹介されたステファン(鈴鹿央士)であることに気づく。

超凡船舶有限公司の設計部門に勤務していたステファンはスクリューに魚を巻き込まないエアージェットを製品化することが夢だが、シー社長(山里亮太)の不興を買い、甲板清掃業務に左遷されてしまう。人間世界との友好交渉が決裂して、海に戻る人魚族ネプトゥーヌス国王(三宅健太)の立てた大波に飲み込まれたステファンは気づくと病院にいて、ネプトゥーヌスの王女チャオ(山田杏奈)の求婚を受けることになる。

「心底地上の人間に心を許したら、水中でなくても人の姿になれるんだよ」。ステファンとチャオの結婚が現在の人魚と人間が共存する世界のはじまりだった。アンデルセン童話の『人魚姫』の翻案は、『魔法のマコちゃん』『リトル・マーメイド』『スプラッシュ』『崖の上のポニョ』と枚挙にいとまないですが、オリジナルストーリーの本作では人魚姫が陸上でもほぼ魚の形態をとっていることと、それによって人の姿と引き換えに声を失うという設定が不要のため、会話ができる(人の姿になっても)という点が特徴的だと思います。

声優としての大きな役は初めてだと思いますが、山田杏奈さんが、良く言えば純真無垢、悪く言えば常識知らずなプリンセスを魅力的に演じており、異形の姫がかわいらしく思えてきます。実写でも『リラの花咲くけものみち』の獣医志望の純朴な農大生から『早乙女カナコの場合は』の小悪魔的なギャルまで役の幅が広いのに加え、声の演技での活躍も今後期待できるのではないでしょうか。劇中歌も素敵でした。

STUDIO 4℃制作の劇場版映画を観るのは『海獣の子供』以来、『ハーモニー』の淡彩の狂気よりも、猥雑な街並みの緻密な描写は『鉄コン筋クリート』に近い。後半のロボットの暴走やカーチェイスの躍動感、挑戦的な画角とカメラアクションの独創性は流石。エンドロールも必見です。

3D音響も素晴らしいので、映画館で観てこその作品だと思います。

 

2025年8月17日日曜日

ノラバーお昼の生うたコンサート&デザートミュージック

真夏日。西武柳沢へ。『ノラバーお昼の生うたコンサート&デザートミュージックChiminさんの回に伺いました。

8月の午後2時半の日射がバス通りに面したノラバーの大きな窓のすりガラスを通すと柔らかく感じられます。1曲目は「すべて」ギター弾き語りのスローバージョンでふわりとライブが始まりました。歌詞に季節を暗示するワードはないのですが、バンドセットのダブビートの印象で僕にとっては夏曲です。

「泣きつかれ/こわれ果てても歌うんだろう」と歌う19歳ではじめて書いた曲「目と目」。Chiminさんの歌声を聴くといつも感じる背筋の伸びた適切な心地良さに汗がすっと引く。先週体調を崩して心配していたアルバイトの看板インコ梨ちゃん2号も元気いっぱいです。

続く「言葉ひとつ」と真夏の花ノウゼンカズラを歌った「シンキロウ」は岡野勇仁さんのエレピが加わる。耳に馴染んだ加藤エレナさんのクリスプなピアノがChiminさんとオーディエンスの背中を押し勇気づけるようなプレイだとすると、岡野さんは音響的にも心象的にも穏やかに包み込むような演奏でありながら、抒情に流れない理知的な音律を感じます。転がるようなKORGの音色を活かした「茶の味」のオブリガートや「残る人」のロマンチックなイントロダクションも素敵でした。

昨今メディアを賑わす排外主義というワードに在日コリアン3世であるChiminさんが心を痛めていないか、すこし気になっていました。「ホロアリラン」「海が好き」のハングルの響きは凛として優しかったです。

お昼のノラバーのお食事タイムは、季節の野菜と果物のサラダノラバーさわやかポークカレーです。店主ノラオンナさんが試作を重ねて辿り着いた酸味のあるカレーはお肉がほろほろで夏休みの遅めのランチにうってつけの味。そして生クリームとチェリーが乗った大人味のノラバープリンノラブレンドコーヒー

傾き始めた真夏の日差しの中でデザートミュージックの配信が始まると「」「時間の意図」「雨がやんだら」と聴きたかった楽曲が続けて演奏され、この幸せな時間が終わらなければいいのに、と思いました。

 

2025年8月16日土曜日

彼女たちのアボリジナルアート

真夏日。京橋アーティゾン美術館で開催中の『彼女たちのアボリジナルアート オーストラリア現代美術 ECHOES UNVEILED Art by First Nations Women from Australia』を鑑賞しました。オーストラリアの先住民であるアボリジナルの女性アーティスト7人と1団体の作品を展示するプログラムです。

大航海時代にイギリスから植民した白人たちにアボリジニは人間とはみなされず、戸籍も作られなかった。200以上の原語、300以上のクラン(部族)に分れ大陸に点在していたアボリジナルの伝統的価値観においては、神事でもある芸術の作り手は男性に限られ、女性の創作物は日用雑貨もしくは土産物と考えられていた。

人種と性的役割という二重の抑圧を受けた女性作家たちですが、世代によって価値観が異なるように感じました。第二次世界大戦前に生まれ、前述の理由で生年が不明確なエミリー・カーマ・イングワリィ(1910頃‒1996)やノンギルンガ・マラウィリ(1938頃‒2023)は作品制作にあたり男たちの許可を得る必要があった。部族の伝統を踏まえつつ意図せずそこから逸脱していくような作風です。

半面、戦後生まれ、且つ白人による同化政策後の世代、ジュディ・ワトソン(1959‒ )、マリィ・クラーク(1961‒)らは、白人風の名前で何人かは混血であるが、それゆえに自らのルーツを探る過程で芽生えた被差別民族としてのアボリジナルの立場から文化収奪に対するデータに基づく告発が作品の制作動機になっています。イギリスによる核実験で故郷を侵されたイワニ・スケース(1973‒)のウラニウムを混入したガラス作品は強いインパクトがありました。

また、イギリスの政策により親元から奪われ、キリスト教義に基づく同化教育を強制された子どもたちの名前を木の枝に焼き付けたジュリー・ゴフ(1965‒)の立体作品「1840年以前に非アボリジナルと生活していたタスマニア出身のアボリジナルの子どもたち」の足元には剥がれ落ちた木の皮が散乱しており、過去の過ちが現在に続くものであることを訴えているようです。

一方で、マーディディンキンガーティー・ジュワンダ・サリー・ガボリ(1924頃‒2015)は、前者の世代に属しながら、高齢者施設の創作プログラムへの参加からまったく異なる独自の抽象表現を持つ巨大な作品群を制作し、その色彩感覚、空間構成力はアボリジナルを遥かに超えて宇宙的な広がりを獲得しています。

作家たちの言葉も含蓄のあるものが多かった。その一部を紹介します。

「深い意味は男たちのもので、これはただの水――私が見る水です。水を描く時はただの水を描きます。波が押し寄せて岩に砕ける、その水で泡になり、砕けて飛び散る。それが私にとっての水です」ノンギルンガ・マラウィリ

「ウランはエネルギーの一種です。地球にはエネルギーがあり、このエネルギーが抽出されると地球は病んでしまいます。そして人類も病んでしまいます」イワニ・スケース

「私たちは文化を失ったわけではありません。ただその一部は休止状態にあって、呼び起こされるのを待っている。私のアートは、私たちの文化活動を再生させること、その強さと回復力を人々に改めて認識させることです」マリィ・クラーク

アーティゾン美術館の常設展示は、印象派、後期印象派を中心に名品が並びます。中国出身のザオ・ウーキー(1920-2013)の作品がまとまって展示されており、エッジの効いた抽象表現がクールでした。

 

2025年8月15日金曜日

The Summer あの夏

終戦の日。ヒューマントラストシネマ有楽町ハン・ジウォン監督作品『The Summer あの夏』を観ました。

「危ない、よけて!」。サッカー部の女子部員スイ(ソン・ハリム)が蹴ったボールがイギョン(ユン・アヨン)に当たり、眼鏡が壊れて、イギョンは鼻血を出して倒れる。翌日から一週間イギョンの教室にスイからいちご牛乳が届けられた。自室の窓辺に空の紙パックを並べ、校庭で摘んだ花を生けるイギョン。

「目が茶色いんだね」「犬みたいな目とからかわれたの」。名将ヒディンク監督率いるサッカー韓国代表がW杯日韓大会で大活躍した2002年の夏。下校中のダム湖に架かる橋の上で二人は、はじめて手をつないだ。

活発なスポーツ少女スイと内向的な優等生イギョン。感情表現は方向性こそ違えどどちらも不器用。秋を迎え、冬を過ぎ、卒業したふたりは首都ソウルへ。イギョンは大学の寮に入り、練習中の十字靭帯損傷で実業団入りを諦めたスイは自動車整備工の専門学校に進学する。新しい生活で小さなすれ違いがほころびを広げる。

対称的な性格のショートカット女子同士の夏のサイダーのような恋愛物語が、36歳の女性監督の繊細な筆致で描かれています。韓国のアニメが日本で公開されることはまだ少ないですが、日本のアニメ映画のエンドロールに韓国の制作スタジオのクレジットは常に見るところであり、セルタッチのテクニカルな面でも非常にレベルが高い。

ハン監督のインタビューによるとスタジオジブリの『海がきこえる』に影響を受けたという本作においても、キャラクターの表情の機微、指先の表現、色彩設計や背景の美しさは特筆に値します。生楽器中心の控えめな劇伴もよかったです。

 

2025年8月13日水曜日

ギルバート・グレイプ

真夏日。新宿武蔵野館12ヶ月のシネマリレー』にてラッセ・ハルストレム監督作品『ギルバート・グレイプ』を観ました。

「アーニー、チキンは?」「チキンはいらない。コーンは食べる」。ギルバート・グレイプ(ジョニー・デップ)は幹線道路脇の草むらで弟アーニー(レオナルド・ディカプリオ)とキャンピングトレーラーのキャラバンを待っていた。州都デモインの大会に毎年向かう彼らは何もない町を通り過ぎるだけ。

だがその年、ベッキー(ジュリエット・ルイス)と祖母(ペネロープ・ブランニング)を乗せたトレーラーだけが、キャブレーターの故障によりエンドーラに留まることになる。

父の自死以降自宅の居間を出ず体重が200kgを超えた母ボニー(ダーレン・ケイツ)、勤務先の火事で職を失い家事を一手に引き受けている姉エイミー(ローラ・ハリントン)、吹奏楽部に所属する反抗期の高校生の妹エレン(メアリー・ケイト・シェルハート)、重度知的障害の弟アーニー、5人家族の暮らしを個人経営の食料品店の給料で支えるギルバート。10歳まで生きられないと医者に言われたアーニーの18歳の誕生日までの夏の一週間を描く、気まずさと優しさに溢れた作品です。

スウェーデン出身のハルストレム監督が1993年に撮ったこの映画をいろいろなメディアで何度観たかわかりません。前回は2022年8月に池袋シネ・リーブルのリバイバル上映に行きました。繰り返し観ても新しい発見があるのは、自分が変化しているからでもあると思います。

わずか一週間に一年分にも相当するような出来事があり、それが無理なく自然に繋がっていきます。コスプレしていないジョニー・デップとひょろひょろのディカプリオ、サイコ系以外のジュリエット・ルイスの主役3人の芝居の非の打ち所のなさはもちろんですが、ギルバートといつもつるんでいる幼馴染、葬儀屋のボビー(クリスピン・グローヴァー)と修理屋タッカー(ジョン・C・ライリー)の地元のツレ感、ギルバートの雇用主であるラムソン夫妻の哀しみ、バーガーバーンの開店祝いのステージで "This Magic Moment" を演奏するエレンのブラスバンドの絶妙な下手さ、炎や水の寓意に満ちたカット、ロングショットの多用による茫漠とした寂寥感と自然美の共存に痺れました。

家族のことばかり考えて、自我を表現する言葉を持たないギルバート。彼らの暮らすアイオワ州はトランプ大統領の再選時に注目されたラストベルト3州の西側に隣接しています。かつては機械工業で栄えたラストベルトより、過去一度も隆盛を経ていない更に忘れ去られた土地に生きるホワイトトラッシュの閉塞感が、政治的には保守化に向うのが、肌感覚でわかります。