ステージ中央で長身で猫背のトム(佐藤滋)が含羞の表情を浮かべ客席に背を向ける。鼻をかんで振り返り、ティッシュを掌から消して見せる。ティッシュは口の中にあり、それを引いて何メートルもの七色の紙テープを出す。「もちろんタネも仕掛けもございます。でもこれから私がお見せするのは手品とは違います」。母アマンダ役の西田夏奈子さんが弾くヴァイオリンの甘い音色に導かれ、舞台は1930年代の米国中西部セントルイスへ。
アマンダに急かされたトムが食卓につき、姉ローラ(原田つむぎ)と3人で食前の祈りを捧げる。アマンダの口やかましさにトムは辟易しているが、ローラはただ黙っている。アマンダの長口上の中で、かつて南部デルタ地帯にいたころの華やかな暮らしぶり、夫との出会い、夫が家族を捨てて放浪の旅に出たことが語られる。
テネシー・ウィリアムズの三大戯曲のうち、『欲望という名の電車』と『熱いトタン屋根の猫』は、学生時代にバイトしていたレンタルビデオ店でVHSを借りて観ました。本作だけ未見だったので、生きているうちにと思って観劇したのですが、とてもよかったです。
舞台はアパートメントの一室のみ、第一幕の登場人物は三人家族だけ。気位が高く躁鬱傾向の母親、自閉的な姉、製靴会社の倉庫で働きながら詩を書く弟。すれ違いながらも強く依存せずにいられない関係性を閉塞感たっぷりに描く。激しく言い争った翌朝のアマンダとトムの咳払いの応酬による言葉のない会話に痺れました。
第二幕、トムの高校からの友人で同じ倉庫に勤務するジム・オコナ―(大石将弘)を家族のディナーに招く。はじめは強く抵抗するローラがドアを開くとマチネの舞台奥の扉の先は劇場の搬入口で、現実の昼間の光が舞台に差し込むという趣向。
「詩人らしく象徴好きなので、彼のことは象徴として扱います」とトムに冒頭に宣言されたジムのほうが明らかに現実味を帯びた存在というアイロニー。一幕では普通に歩いていた足の不自由なローラが、ジムの登場を機に片足を引き摺りはじめることで、閉じた世界に外部の視線が加わったことを示す。
二幕後半のローラの変容は、蝋燭一本の頼りない灯りに照らされることでリアリティを帯びる。部屋の壁に映る登場人物の影を活かした繊細な照明は岩城保さん。揺れる父の写真の額縁。控えめな音量ながらスコット・ジョプリンやグリーグの『ペール・ギュント』をさりげなく引用した額田大志さんの音楽の貢献度も大きい。
若者を演じる三人の抑えた演技に対して、西田夏奈子さんの振り切ったお芝居が物語上のジェネレーションギャップを際立たせる(佐藤滋さんと西田夏奈子さんは実際は同年生まれ)。四人の登場人物の誰にも共感するポイントがないのに、現代で言うところの機能不全家族の手触りがリアル過ぎて、風雪に耐えた古典の強靭な構造の普遍性を感じました。