2025年11月28日金曜日

果てしなきスカーレット

ローソンユナイテッドシネマアーバンドックららぽーと豊洲細田守監督作品『果てしなきスカーレット』を観ました。

眩しい光の中に浮かび上がるロングドレスの後ろ姿が風を受けている。画面は暗転し、荒涼として汚れた大地を上空から俯瞰する。「ここは天国?」「ここは生も死も混ざり合う場所。それは対立するものではない」。主人公スカーレット(芦田愛菜)は、自身が死後の世界にいることを自覚する。

中世のデンマーク。スカーレットの父である融和主義者の王(市村正親)を叔父クローディアス(役所広司)は策略で処刑し、王妃を奪って王位に就く。まだ幼いスカーレットは父の仇討ちを誓い、トレーニングを重ねて、強靭な戦闘能力を身に着けたが、復讐心を見抜いたクローディアスに毒を盛られる。

辿りついた冥界は、あらゆる国と地域、あらゆる時代から来た者たちが、死してなお略奪と殺戮を繰り返す、救いの見えない荒れた土地だった。そこでスカーレットは21世紀の東京から来た看護師の聖(岡田将生)と出会う。

シェイクスピアの『ハムレット』を下敷きにした細田守監督の新作長編映画は、まずそのアニメーション表現の凄さに圧倒されます。基本的には荒涼とした冥界で展開する物語でありながら、その荒涼性を極限まで突き詰めた背景だけで画面がもつ。ラクダに乗ったキャラバン隊との心温まる交流は、現代美術家ヨーゼフ・ボイスが大戦中に不時着した際に命を救った砂漠の遊牧民族を思わせる。

芦田愛菜さんが声を演じた過去作『海獣の子供』『かがみの孤城』と比較すると、本作では素のパーソナリティが覗くことが時折あるのですが、普段バラエティ番組などで見せる冷静で理知的な語り口からは遠く、復讐心に駆られた王女を腹の底からの叫びで熱演しています。

「神様には人間の言葉が伝わらない。踊りで気持ちを伝えるのだ」。暴力の連鎖が続く陰鬱な展開の中で、冥界と現代の都市、二度にわたって描写されるダンスシーンを見ると、細田監督は音楽や舞踊を闘争の対極にある自由や平穏の象徴と考えているのだな、と思います。『サマーウォーズ』や『竜とそばかすの姫』で描かれるカラフルでクールなサイバースペースとは真逆のダークでゴスな世界観を持つ本作が、僕は好きです。

 

2025年11月24日月曜日

In the Sanctuary EKODA GOSPEL CHOIR GOSPEL CONCERT 2025

秋晴れ。江古田聖書キリスト教会In the Sanctuary EKODA GOSPEL CHOIR GOSPEL CONCERT 2025 を聴きに行きました。

一昨年は12月16日、昨年は12月21日に開催された同公演が今年は11月に。クリスマスのホーリーな気分にはまだすこし早いですが、その分ファンキーでグルーヴィな現代ゴスペルの魅力が詰まったステージになったと思います。

1曲目は「すでに受けたと信じます」。マルコ福音書をサンバのリズムに乗せて「祈り求めるものはすでに受けたと信じます/そうすればその通りになる/そう言えばそうなる」という信仰に対するポジティブなメッセージを歌う。ミサの終わりに唱えられる「アーメン」と同義です。

転じて2曲目の「I Am The Way」はキリスト目線。礼拝室の入り口で配られた明治メルティ・キッスに同封されたカードに書かれた「イエスは彼に言われた。『私が道であり、真理であり、いのちなのです。私を通してでなければ、だれひとり父のみもとに戻ることはありません』(ヨハネ福音書第14章5節)。

3曲目の「山上の垂訓」はマタイ福音書より。中学の後輩でもある敬愛するミュージシャンのmueさんは、4人のソリストのひとりとして、澄んだ歌声で普段のガットギターの弾き語りとはテイストの異なるソウルフルでパワフルな歌唱を聴かせます。

ハイテンションな4人の Master Of Ceremony によってテンポよく進行する約2時間、全19曲のショーは、堀木健太さん(Ba)、永井開さん(Key)、粟野耀太さん(Dr)、木村裕太さん(Gt)の緩急のある見事な演奏と、レギュラーチームに加え、教会のワークショップやメンズ、キッズクワイア、HIPHOPダンス尾山牧師夫妻によるスキットなど、平板にならない工夫が凝らされています。

一昨年、昨年は、音楽のグルーヴを心底楽しんだ一方、歌詞に登場するキリスト像について、戸惑いを感じる部分があったのですが、2歳から12歳のキッズクワイアがみずから作詞し歌った「What A Wonderful God We Serve」の「神様のことば信じて讃えよう/わたしたちの罪を許すために/イエスさまを送ってくれた」という歌詞を聴いて、自分の中に納得できる糸口を見つけることができたように感じます。

三位一体説をどう解釈するか。神と子と精霊は一体ではあるが三位なのだ。ゴスペルナンバーに登場する「神さま」というイディオムも多様であり、全能のヤハウェを歌うものもあれば、懊悩するイエスを歌うものも、自らの内面にある神性を歌うものもある。70名超のクワイアが、Master Of Ceremony、バンドサウンド、300名近い観客と一体になった強烈なバイブスに身を委ねながら、そんな思考を巡らせていたのです。

 

2025年11月22日土曜日

水晶の舟 方丈幻夢譚・月下水鏡

猫の日の阿佐ヶ谷。黒猫茶房・晩秋公演、水晶の舟(バンド名)方丈幻夢譚・月下水鏡(ライブイベント名)に行きました。

スターロード商店街のどんづまりにある黒猫茶房さんは、水晶の舟のメンバーが営むお店。木製のドアを開くと既に客席はぎっしり。東南アジアの民族音楽が小音量で流れている。小上がりがステージになり、壁に全裸女性の磔刑図。18時10分、紅ぴらこ(Gt/Vo)、影男(Gt)、松枝秀生(Ba)、志村浩二(Per)の4人が揃うと照明が落とされ、ステージに薄衣が引かれる。

古い柱時計のチクタク音が静寂に響き、頭上のランプシェードと舞台中央のキャンドルのゆらめき、エフェクターのLEDの点滅だけが灯りです。影男さんのソフトなコードストロークに導かれ「本日は水晶の舟にご乗船ありがとうございます。たくさん乗っているから溺れないように」というぴらこさんのMCから始まる全編即興演奏のライブでした 

「月の光を浴びて眠りにつくと怖い夢を見る/だから月の光を浴びて寝てはいけない」。タイトル通り月をモチーフにした即興詩の朗読と歌唱を時折挟むが、基本的には2本のエレクトリックギター、エレクトリックベース、パーカッションによるインプロヴィゼーション。

サイケデリックではあるが、1990年代のシューゲイザー、ゼロ年代グラスゴーのエレクトロニカやレイキャヴィクの響きも感じます。その印象はジェントル、とても優しく礼儀正しい。アンサンブルが調性を手放したり、松枝さんのジャズベースがあえて拍節を乱したり、2本のギターが歪み切った轟音を鳴らしたりしても、かならず影男さんのストラトキャスターのフロントピックアップの甘い音色のコードストロークと柱時計の振り子のビートに帰ってきます。

もうひとつの安心ポイントはリズムの確かさか。中低音域のフレームドラム中心の志村浩二さんのリズムキープが恐ろしくタイトに演奏全体を引き締め、的確なタイミングで鳴らされるハンドベルの控えめな音色がノイズの奔流に清涼感をもたらす。

ザ・ドアーズの曲名を冠した1999年結成の水晶の舟は、欧米アジアのアンダーグラウンドシーンで評価が高い。折り目正しい即興演奏は、気づけば2時間が過ぎていました。

2025年11月11日火曜日

旅と日々

ポッキーの日。TOHOシネマズ シャンテ三宅唱監督作品『旅と日々』を観ました。

窓から雑居ビルの連なる景色、背後にインクジェットプリンタ。脚本家の李(シム・ウンギョン)がノートに鉛筆で「シーン1:夏、海辺」とハングルで書いている。

乗用車の後部座席で眠る女(河合優実)。車は海へ向かい、むき出しの岩の法面はワイヤーフェンスで補強されている。ビキニ姿の外国人が砂浜で文庫本を読む少年(高田万作)に話しかける。そしてボーイミーツガール。少年が海辺の街を案内し、翌日の約束をして夜に別れた。

それは李が脚本を書いた映画のストーリー。大学の教室で上映され、監督と共にポストトークに登壇した李は学生から質問されて「自分には才能がないと思った」と答える。

「言葉から遠いところで佇んでいたいのに、いつも言葉につかまってしまう。旅とは言葉から離れることなのかもしれない」。李は電車で雪深い温泉街へ旅する。宿はどこも満室で断られ、フロントで案内された山頂の荒れ果てた民宿で主人(堤真一)と出会う。

障害や疾病との和解/共存を描いた三宅監督の「ケイコ 目を澄ませて」「夜明けのすべて」は好きな作品ですが、つげ義春の短編漫画「海辺の叙景」「ほんやら洞のべんさん」を原作として、三重の入れ子構造で撮られた本作は、そのどちらとも異なる脱構築性を持っています。

河合優実の気怠さは魅力的ですが、つげ義春的昭和サブカル感を最も体現しているのは、原作にはない大学教授とその双子の兄弟の二役を演じた佐野史郎か。いちいち怪しくて、真顔で可笑しなことを言う。堤真一は『ALWAYS 三丁目の夕日』以降、昭和の頑固親父の印象が僕には強かったのですが、東北弁で演じる人生の敗残者が非常に上手い。

三宅監督は、主要人物を画面の中心から少しだけ外して配置する。そして音に対する感性が半端なく鋭敏。映像に付随するあらゆる音声に耳をそばだてずにはいられませんでした。

 

2025年11月9日日曜日

ひとつの机、ふたつの制服

秋雨。ヒューマントラストシネマ有楽町ジャン・ジンシェン監督作品『ひとつの机、ふたつの制服』を観ました。

台北市立第一女子高級中学は台湾で偏差値1位の名門女子高、緑色の制服が特徴です。シャオアイ(チェン・イェンフェイ)は全日制の受験に失敗するが、母(ジー・チン)の強い勧めで同校の夜間部に進学する。

入学式の日に先輩から聞いた第一女子特有の習慣「机友」、全日制と夜間部で同じ机を共有する同士、引き出しで手紙やお菓子をやりとりするという。すこし早めに教室に着いたシャオアイは机友であるショートカットのクールな優等生ミンミン(クロエ・シャン)と顔を合わせる。手紙を通じて距離を縮めるふたり。やがて親友となり行動を共にするようになる。

シャオアイはミンミンに促され、制服を交換して学校を抜け出す。バイト先の卓球場に来た第一高校(男子校)理数クラスのルー・クー(チウ・イータイ)にシャオアイは一目惚れするが、ミンミンもバスケ部エースのルー・クーのことが気になっていた。

舞台は1997~99年の台北市。スマートフォンも携帯電話も出てこない。eメールは存在しモデムで接続するのが懐かしい。制服の緑色のシャツの左胸には、全日制は太陽の黄色、夜間部は月の白色で学級と生徒番号が刺繍されている。エドワード・ヤン監督の2000年公開作品『ヤンヤン 夏の想いで』の主人公の姉ティンティンも同じ第一女子の制服を着ており、同じ世界線にいると思うと趣深いです。

日本のアニメやドラマ、好きなハリウッドスターで意気投合し手紙を通じてお互いを知っていろいろな冒険を経験する序盤にわくわくさせられ、見栄でついた小さな嘘が取り返しのつかないほど膨らむ展開には胸が詰まります。場所取りをめぐり体育館で起こる全日制と夜間部のつばぜり合いにはハラハラしました。主人公たちと共に感情が揺さぶられるのは、思春期に同じような経験をしているからなのでしょう。自己肯定感の低いシャオアイにポジティブなミンミンがかける「今どこにいるかじゃない。(これから)どこに行くかよ」という言葉が染みます。

とてもよくできたビタースイートな青春映画で、あえて難点を挙げるとしたら、劇伴が常時鳴っていてちょっとだけうるさいかな、という点ぐらい。日本で実写リメイクするなら、実年齢はさておき、伊藤万理華さん伊原六花さんでお願いしたいです。

 

2025年11月1日土曜日

港ハイライト concert vol.1「尊敬」

吉祥寺STAR PINE'S CAFEで開催された『港ハイライトconcert vol.1「尊敬」』にお邪魔しました。

19時をすこし過ぎて客電が落ち、藤原マヒトさん(Pf)、宮坂洋生さん(Ba)、柿澤龍介さん(Dr)の3人が客席を抜けてステージに上がり、長めのイントロに導かれてノラオンナさん(Vo)が舞台に立つ。新生港ハイライトの1曲目は「抱かれたい女」。

四分の六拍子のマイナースウィング「無理を承知で言ってるの」、ワルツの「ないものみえないもの」「タクト」と続く第一部は2016年の1stアルバムの楽曲をピアノトリオで再編曲したもの。ノラさんがひとりで歌う「粉雪」、「やさしさの出口で」のリリカルなピアノのイントロからリズムインする瞬間の高揚感。「港ハイライトブルーズ」のCODAのウッドベースの強烈なバックビート。

休憩を挟んで第二部は、オルゴールのように可憐なピアノの前奏が加わった「風の街」から。白い衣装に着替えた4人。ノラさんのドレスにプリントされている大きなけしの花が遠目には血痕のようにも見え、第一部の黒衣装と相俟って、鎮魂と再生を象徴しているように感じました。

2012年に始動した港ハイライトを僕が初めて聴いたのは2013年3月、吉祥寺MANDA-LA2でした。ギターレスのピアノトリオに男女ツインボーカルの初期編成による「あたたかいひざ」から、ノラオンナ produced by 港ハイライト『なんとかロマンチック』期にはギターと管楽器が加わり、名盤『抱かれたい女 feat.古川麦』が2016年に誕生する。

その変遷を辿れば、港ハイライトという音楽制作ユニットが、ノラオンナさんのビジョンを体現する単なる装置ではなく、各々が主体性を持って参加する「バンド」であり、その最新型である現在のアコースティックカルテットは、パーマネントなベーシストを得たことで、バンド感が更に強固になりました。ノラオンナさん曰く「むさくるしい男達」の演奏には繊細さと優しさが滲む、粋な大人の夜の音楽。

第二部に配置された楽曲群は、曲調も制作年代もより幅広く、「この曲を港ハイライトが料理するとこうなるのか」という驚きと、シンプルな編成で楽曲の骨格の確かさ、歌唱の技量を示したのと同時に、今後の発展形を期待させるものでした。

 

ヤンヤン 夏の想い出 4Kレストア版

秋晴れ。第38回東京国際映画祭特別上映エドワード・ヤン監督作品『ヤンヤン 夏の想い出 4Kレストア版』を観ました。

ヤンヤン(Jonathan Chang)は10歳。初夏の晴れた日、祖母、両親、姉ティンティン(Kelly Lee)と叔父アディ(Hsi-Sheng Chen)の結婚式に出席した。新婦は妊娠しているが、新郎の希望で吉日を待っていたため、お腹が大きくなっている。

親族が披露宴を待つ間、具合が悪くなった祖母(Ru-Yun Tang)はティンティンに付き添われて先に帰宅する。控室では招かれざる客、アディの元恋人ユンユン(Hsin-Yi Tseng)が現れ泣き喚く。

2007年に59歳で早世した台湾の至宝エドワード・ヤンの遺作となった2000年公開の本作は、盟友候孝賢(ホウ・シャオシェン)監督の『冬冬の夏休み』(1984)にも似た牧歌的な邦題の通り、ひと夏の物語であるが、物語を動かしているのはヤンヤンの姉ティンティンと父NJ(Nien-Jen Wu)の二人。初恋、人生の悔恨、小さなよろこび、喪失、様々な感情が織りなす監督自身が手掛けた脚本に、カメラワーク、音響、演出、役者陣の自然且つ陰影の深い熱演が結晶した、2000年代を代表する傑作と呼んでも差し支えない作品です。

ヤンヤンの母ミンミン(Elaine Jin)は、実母が脳出血で倒れたことがトリガーになり、メンタルが崩れて職場の同僚が入信していた新興宗教に傾倒し、山中の道場に篭る。父NJは2000年当時勃興してきたIT企業の取締役、アメリカに移住した初恋の人シェリー(Su-Yun Ko)とホテルのエレベーターホールで偶然再開し、日本出張時に東京を訪れていたシェリーと会い、熱海に旅するが旅館は別々の部屋を選ぶ。

姉ティンティンは自宅マンションの隣室で外資系銀行の役員の母と暮らすリーリー(Meng-chin 'Adriene' Lin)の友だちになるが、リーリーと気まずくなった恋人ファッティ(Chang Yu Pang)の手紙を仲介するうちに恋心が生まれます。

揺れ動く家族の機微を見つめるヤンヤンの曇りのないまっすぐなまなざしは、祖母の葬儀の自筆ノートの朗読に結実する。

「なぜ私たちは初めてを恐れるのか。 人生は毎日が初めてだ」。NJの取引先である天才ゲームデザイナー太田(イッセー尾形)の台詞が隠喩と示唆に満ちている。今をときめく津田健次郎が居酒屋の店員役でワンシーンだけ出演しています。

台北のマンション、ホテルオークラの客室、熱海つるや旅館の夜景を背にした大きなガラス窓に反射した登場人物たちは、キャラクターの二面性と視点の客体化を促し、祖母の帰宅時やリーリーを待つファッティを映す防犯カメラの粗い映像は、バッドエンドを予感させる不穏なざらつきを我々に突き付ける。

アジア人らしい慎みと内に秘めた激情、諦念。60歳になったこのタイミングで本作を鑑賞できたことを映画祭に感謝したいです。