2017年3月29日水曜日

TRIOLA a live strings performance

3月最後の水曜日。にぎやかな年度末の商店街を抜けて。下北沢 leteで、波多野敦子さん(作曲、5弦ヴィオラ)と須原杏さん(ヴァイオリン)によるオルタナティヴ弦楽デュオ TRIOLA を聴きました。

昨年夏に現体制になりコンスタントにライブを重ねてきたふたりですが、前回12月1日にleteで行われたワンマンライブ以降、約4ヶ月の制作期間を経て、ひさしぶりの生演奏です。

薄いリヴァーヴがかかった5弦ヴィオラの低音弦の弱音のピチカートからスローなグリサンドへ、第一部は穏やかに進んでいく。セットリストは徐々にテンポを上げ、前半ラストの「クジラの駆け落ち」はめまぐるしくい奇数拍子の奔流に。

後半は山籠もりして制作した新曲が中心。全体的なトーンとしては、以前の中近東/東欧調のメランコリックな旋律は隠し味となり、北欧的な和声と構築性が前面に出ている。前回までのワンマンライブで尺を取っていたソロ即興パートはなく、「2つの弦が吸い付くようになりました」という波多野さんのSNSの発信のとおり、全篇がスコアに則ったアンサンブルによる演奏です。

敢えて喩えるなら、一方にモーリス・ラヴェルの「ラ・ヴァルス」を、もう一方に Boards Of Canada の "Dayvan Cowboy" を置き、そのはざまに断続する混沌の浪間から時折美しい旋律の断片が見え隠れする音楽を緻密に組み立てています。

ますます抽象性が高まった新曲群には「tr 2」「tr 6」というように作品番号が付けられています。「tr」はトラックなのか、トリオラの略なのか。演奏しているふたりのなかには楽曲毎のストーリーが存在するのだと思いますが、リスナーの多層的な解釈を許容する意味で、いまのまま数字のタイトルのほうがいいんじゃないでしょうか。

波「次の曲はテクノです」杏「この編成で」波「できますよ」杏「感じてもらいましょう」というやりとりから演奏された「tr 10」のヴィオラのリフレインから幻聴される4つ打ちのキック。重ねるヴァイオリンのきらきらしたフレーズはゼロ年代のエレクトロニカへのオマージュか。淡いパステルを重ねたような二声のフーガへの展開も美しかったです。


2017年3月25日土曜日

オルセーのナビ派展

よく晴れていますが風が冷たい。三寒四温でいうと三寒のほう。丸の内三菱一号館美術館で開催中の『オルセーのナビ派展』に行きました。

「絵画が、軍馬や裸婦や何らかの逸話である前に、本質的に一定の秩序の下に集められた色彩で覆われた平坦な表面であることを思い起こすべきだ」モーリス・ドニ新伝統主義の定義』(1980)

村野四郎ノイエ・ザッハリヒカイトにも通じるナビ派の即物主義的なアティテュードは、僕が大人になり、反抗的な十代の自己愛と自己嫌悪を超えて、詩作を再開した時期に大変影響を受けたものです。既成概念を一旦脇に置いて、対象物を見る、聞く、触る。そのときに自分の内外に起きたことを起きた順番に書き記す。自身の感覚に対する疑念も等価に扱う。

ドニ、ピエール・ボナールポール・セリュジエ。1870年前後に生まれた彼らのひとつ上の世代の象徴主義、印象派、後期印象派に対するリスペクトと強い反発。二十歳そこそこの画学生たちの青臭く清潔な野心と気概が画布から伝わってきます。

自然や人物には元来備わっていない輪郭線を描き、平坦な色彩で塗り分ける。現実を写しとるのではなく、絵画ならではの価値を模索していったのは、当時の最新テクノロジーである写真の登場も大きかったのではないかと思います。グループとしてはわずか9年程の活動期間ですが、一方では第二次世界大戦後米国の抽象表現主義に、他方では現代のアニメーション表現へ、両極端な継承のされ方をしているのも興味深い。

従来はゴーギャン展のゲスト的に扱われることが多かった彼らの作品をナビ派前後の時期も併せて一堂に観賞できます。のちのエドワード・ホッパーを思わせるフェリックス・ヴァロットンの都市の倦怠、エドゥアール・ヴュイヤールの「ベッドにて」、そしてなにより1890年代のドニの作品がどれも、コンセプト的にも技術的にも素晴らしかったです。


2017年3月18日土曜日

ひるね姫

ずいぶん春らしくなってきました。昼間の日差しがまぶしい。ユナイテッドシネマ豊洲神山健治監督作品『ひるね姫 ~知らないワタシの物語~』を観ました。

森川ココネ(声:高畑充希)は高校3年生。倉敷市児島、瀬戸大橋の見える高台で小さな自動車修理工場を営む無愛想な父親モモタロー(声:江口洋介)と二人で暮らしている。舞台は2020年の夏、東京五輪の直前。家でも教室でも居眠りばかりしているココネには決まって見る夢があった。

映画の冒頭10分は主人公の見る夢で「お、寅さん」と思う。ハートランドはすべての人が機械作りに携わっている国。その国に災いをもたらすという魔法の力を持つ王女エンシェンの冒険譚はロボットSFファンタジー。そして瀬戸内ののどかな島の女子高生の日常のパラレルワールド。父親の逮捕を機に、夢と現実の世界が交錯しはじめる。

キャラクター造形と動きの滑らかさが見事で、背景描写も美しく、アクションにもキレがある。夢と現実の世界がそれぞれ魅力的に描かれているところは高く評価できます。一方でふたつの物語が溶け合ってドライヴがかかる後半は、変化し続ける設定の複雑さを観客に伝えるには脚本の力が充分ではないように感じました。

高畑充希さんの抑えた演技。岡山弁のお芝居も達者ですが、達者すぎてときどき女子高生の台詞には聞こえないのが難点かも。エンドロールでご自身の歌う「デイドリーム・ビリーバー」は舞台ミュージカル出身の面目躍如。とても上手だし素敵です。もっと歌えばいいのに。

はじめて会った祖父に「人生は短い」と言われ、「人生って短いんだ」とおどろくココネ。ありそうでなかった会話で、この映画の一番の名場面だと思います。僕も18歳の頃、人生が有限なことは理性では認識していましたが、体感はしていませんでした。

 

2017年3月12日日曜日

ラ・ラ・ランド

毎年この時期になると、4月に生まれ、3月に亡くなった「埃っぽい春の野原」という名前の英国人歌手ダスティ・スプリングフィールドを思い出します。ユナイテッドシネマ豊洲デイミアン・チャゼル監督作品『ラ・ラ・ランド』を観賞しました。

女優志望のミア(エマ・ストーン)はハリウッドのフォックススタジオのカフェでバリスタのバイトをしている。ルームメイトたちと出かけたクリスマスパーティの最中に愛車プリウスがレッカー移動され、ひとり徒歩で帰り道、偶然耳にした音楽に引き寄せられて入った店。売れないジャズピアニストのセブ(ライアン・ゴズリング)はその店を解雇されたところだった。

タイトルバックに "Technicolor" の文字、総天然色シネマスコープの画面は、ハリウッドのミュージカル映画全盛期のテンプレートをこれでもかというぐらいなぞり、且つ最新のテクノロジーによって実現可能な最大の物量で、物語が進んでいきます。

アカデミー賞5部門を受賞し、多くの観客を魅了している映画ですが、数こそ多くないものの強く否定的な意見も聞きます。その背景には現在の米国社会、所謂ポスト・トゥルースに呼応したアートの保守化に対する反発があるのだと思います。

ミュージカルですから、リアリティよりもエンターテインメント、物語はご都合主義なほど楽しい、と僕なんかは単純に思うのですが、確かに浅いところはあります。セブがミアに「ジャズとは何か」と語る台詞には「そりゃまあそうだけど、それだけじゃないだろ」と思ったし、セブの自作曲の演奏は彼が神聖視しているビバップスタイルからは程遠い。

とはいえこの作品にあまり多くを背負わせるのもいかがなものかとは思います。2000年以降のミュージカル映画で『ダンサー・イン・ザ・ダーク』は別としても、『シカゴ』『ジャージー・ボーイズ』『インサイド・ルーウィン・デイヴィス』『舞妓はレディ』などと比較して突出して優るものでも劣るものでもありません。

むしろ「映画にとって音楽とは何か」ということを、『ラサへの歩き方』や『サバイバルファミリー』のように劇中音楽をまったく用いない映画を続けて観たこともあり、とても考えさせられました。現実生活における別れ話のサウンドトラックはファミリーレストランの有線放送だったりするわけで、そのときどきの感情を増幅する音楽が流れるのは明白な虚構であり、登場人物が突然歌い出すなんて尚更のこと。

それでもエマ・ストーンの真っ青で大きな瞳はブルーのミニドレスや同色のVネックニットに映えてヘヴンリィな美しさだし、カラフルで壮大なモブダンスやプラネタリウムの空中浮遊に心躍り、ラストシーンのオルタナティヴな選択肢を数十秒で見せるカットアップには痺れました。


 

2017年3月11日土曜日

DAVID BOWIE is | デヴィッド・ボウイ大回顧展

3.11。東日本大震災から6年が経った土曜日の朝、ゆりかもめとりんかい線を乗り継いで天王洲アイルまで。寺田倉庫G1ビルで開催中の『DAVID BOWIE is | デヴィッド・ボウイ大回顧展』に行きました。

2016年1月8日、69歳の誕生日に新譜 "★ (Blackstar)" をリリースし、その2日後に肝臓癌で亡くなったデイヴィッド・ボウイの生前2013年にロンドンの英国王立ヴィクトリア&アルバート博物館で開催されたレトロスペクティブの巡回展示です。

まず入場時にヘッドホンと受信装置が手渡されます。展示には "DAVID BOWIE is 〇〇〇" というチャプター毎のテーマがあり、映像や衣装や手書き歌詞の近くに立つと関連する音楽や音声コメントがヘッドホンから流れる仕組み。ロンドンの展示の紹介映画を昨夏観たので内容は把握していたのですが、実際に体験してみるとなかなか面白いものです。複数の人が同時に同じ音を聴いているのですが、会場の別の区域では異なる音が再生されている。

幼児期のポートレートは勿論、小学校の通知表、10代の頃に描いた舞台セットのパース、ベルリンで借りていたアパートメントの鍵、映画や舞台のポスターやパンフレット、相当なコレクター体質だったのだと思います。しかもファンが喜びそうなものが何かわかっていたのでしょう。

2013年であれば "DAVID BOWIE is" が現在形だったのに、もはや "DAVID BOWIE was" になってしまったなあ、と感慨に耽っていると、最後の部屋の壁の文字が "DAVID BOWIE is All Around You" と消され、"DAVID BOWIE is FOREVER NOW" に書き換えられている。最後の最後に全人類に向けたバースデーメッセージの動画で涙腺決壊した方も多いと思います。

数多く展示されているステージ衣装では、Ziggy StardustでもThin White Dukeでもなく、最も普段着っぽい "STAGE TOUR" の白いヘンリーネックシャツに一番ぐっときました。初めてリアルタイムで聴いたレコードが1978年のライブ盤"STAGE"だったので。

ライブ映像をランダムに流し続けている部屋では、1987年西ベルリンのライブから "Heroes"、BBC Top of the Popsの"The Jean Genie"、劇場版ジギー・スターダストの "Rock'n Roll Suicide" の3曲を聴き、"You're not alone/Gimme your hands cause you're wonderful" という声に背中を押されて会場を出ました。

あと、ずっと気になっていたFELTの2ndアルバム "The Splendour of Fear" のジャケ画の元ネタがアンディ・ウォーホル映画"Chelsea Girls" のポスターだとわかってすっきり。サンキュー、デイヴィッド。



2017年3月5日日曜日

マティスとルオー展

新橋に用事があったので、すこし早めに家を出て、パナソニック汐留ミュージアムで開催中の『マティスとルオー展』を観賞しました。

アンリ・マティスジョルジュ・ルオー。20世紀前半のフランスで活躍し、今も人気のあるふたりの画家はパリのエコール・デ・ボザール(国立美術学校)でギュスターヴ・モローに師事した同級生。育った境遇も作風も対照的ですが、生涯親交があり、数多くの書簡が残っています。

ふたつの大戦を超え、ふたりとも80代まで長生きしました。50年以上にわたるコレスポンダンス。若いうちは芸術論、離れて暮らすようになるとお互いや家族のことを、老境を迎え体調や健康法について。マティスの整った字体に対して、ルオーの手紙は溢れ出る感情そのままに行間や余白にどんどん書き足していくスタイル。

会場のパナソニック汐留ミュージアムは常設でもルオーのコレクションが充実していますが、今回の展示ではマティスの作品も数多く集めており、観応えがあります。ボードレールの『悪の華』に添えたふたりの挿画の振れ幅の大きさ。他にも時期を違えて同じテーマで描いた作品も多く、感応と差異を味わいました。

若い頃の僕は芸術に対して潔癖なところがあり、作家の人となりや作家同士の交流はノイズであり、知っていることはマイナスではないが、観賞や評価の際には排除すべき要素だと考えていました。おのれと作品との対峙にのみ真の芸術があるのだと(笑)。年を取ってよかったのはそういう無駄な気負いがなくなったことです。

自身は19世紀象徴主義の作家であり、おそらくはマティスやルオーらの新しい芸術に心底共鳴していたわけではない。それでも「私は君たちが渡っていくための橋だ」と言って背中を押したギュスターヴ・モローの懐の深さにも感心しました。