2017年11月26日日曜日

永遠のジャンゴ

強い風が吹きましたが、寒さがすこし和らいだ日曜日。ヒューマントラストシネマ有楽町で、エチエンヌ・コマール監督作品『永遠のジャンゴ』を観ました。

1943年6月、第二次世界大戦中ナチス占領下のパリ。ロマ(ジプシー)のギタリストでジプシー・スウィングの創始者であるジャンゴ・ラインハルトレダ・カティブ)は33歳。そのライブパフォーマンスは絶大な人気を誇っていた。

ナチスの迫害はユダヤ人だけでなく、障がい者、同性愛者、ロマにも及ぶ。モンパルナスの夜の女王ルイーズ(セシル・ドゥ・フランス)の手引きで、スイスに亡命するために妊娠中の妻と老母と共に、レマン湖畔の小さな村トノンに逃れる。そこで待っていたのはナチスの幹部たちが集うパーティでの演奏だった。負傷した英国兵を逃がすためにジャンゴはそのオファーを受ける。

定住地を持たないロマには土地の所有や国家、国境という概念がなく、ジャンゴも当初は戦争に関心がない人物として描かれています。あくまでも自身および親族の小コミュニティの快楽原則に基づき行動選択する。ナチスを憎むようになったのもペットの猿ジョコを殺されたから。

しかしナチスの残虐ぶりは凄惨を極め、仲間たちに被害が及ぶにつれ、レジスタンスに加担していきます。そして迫害されたロマの魂の救済のために壮大なレクイエムを作曲します。

舞台を1943~45年に絞ったことで、フランス・ホット・クラブ五重奏団がヴァイオリンのステファン・グラッペリ脱退後であるのは少々残念ではありますが、無理に史実を捻じ曲げない脚本には逆に好感を持ちました。十代の頃負った火傷の後遺症で不自由な左手の薬指と小指。シングルカッタウェイのセルマー・マカフェリジャンゴロジーの劣悪な音質がHi-Fiで蘇り、ジャケ写がそのままハイビジョン化して動き出したかのような演奏シーンは感動的。

非アーリア人の音楽であるジャズはナチスにとって退廃芸術。ブルースは禁止、演奏中に足でリズムを取るのは扇動行為、スウィングは20%まで、シンコペーションは5%以内、ソロは最長5秒、ウッドベースはボウイングのみ、等々、ナチスが定めた規則はアホとしが言いようがないですが、ナチ将校に「お前は音楽を知っているのか?」と問われ「そんなもんは知らん。音楽が俺を知ってるんだ」と答えるジャンゴは最高にクールです。
 
 

2017年11月25日土曜日

中田真由美の歌劇なワンマンショー!2017

晩秋から初冬へ移る街並みを関東バスの車窓から眺めながら。阿佐ヶ谷 harnessで開催された『中田真由美の歌劇なワンマンショー!2017』本編26曲、アンコールを含め全27曲を2時間強で。

4年前に下北沢SEED SHIPPoemusica Vol.22で共演したのをきっかけにその後もご一緒させてもらったり、観客としてライブお邪魔したりしています。ステージで見せる明るい笑顔とは裏腹にどこか人を寄せ付けないような雰囲気があって、面白い人だな、と思っていました。

今日のMCでも「警戒心が強くて」と言っていましたが、もしかしたらそれは誰かに裏切られないために自分を守っているのではなく、自分の才能と揺るぎなさが誰かを傷つける可能性を無意識のうちに恐れていたのかもしれません。その殻が徐々に取り払われ、オープンな空気を纏うようになって、それが歌唱にもギター演奏にも現われていました。

「僕、君と考えるのが好き」(くらげくん)という歌詞にもあるように、中田さんは考える人であり、思考の果てにポンっとホップして広大な感覚の領域に至るような音楽を創造しています。歌わせてもらう、とよく言いますが、お客様とか音楽の神様とかではなく、体内に存在する常在菌や大気中の埃粒の輝きやそういったアニミズム的なものが彼女を歌わせているように思えます。

光景が目に浮かぶような、とは詩や歌詞を褒めるときによく聞きますが、それだけじゃないと僕は思っています。意味や視覚に像を結びづらい抽象的な音や言葉の連なりであっても、それが感情や記憶のテクスチュアに直結したときに最も高揚します。中田さんの楽曲にはそういう瞬間が多々あって、僕はそこに惹かれるのだと思います。「いつもとすこし違ったものを見に行きましょうよ」(電車に乗って)、と新しい切り口で世界を見させてくれるからです。

レアな曲がたくさん聴けたのもワンマンならでは。中田さん自身が弾くギターも、2曲にゲスト参加した夏秋文彦さんHAMMOND SS S-27H(ソプラノ鍵盤ハーモニカ)の響きも大変に美しいものでした。



2017年11月18日土曜日

TQJ Poetry Reading Live

予報ほどひどい雨にはなりませんでした。文京区白山のJAZZ喫茶映画館で開催された TQJ Poetry Reading Live にご来場のお客様、映画館のマスターと絹子さん、共演者のおふたり、皆様どうもありがとうございました。

晩秋の短い日が暮れかかる3時半に始まり、5時少し前に終演する頃にはあたりは冷たく湿った宵闇に包まれていました。われわれ3人のポエトリーリーディングショーをお楽しみいただけたのなら幸いです。

究極Q太郎氏に初めて出会ったのは2000年6月、西荻窪にあったブックカフェHeartland。東京都の半透明ゴミ袋にアコースティックギターを無造作に突っ込んで、足元は健康サンダル、という姿に衝撃を受けました。今日のQさんはコンビニレジ袋に自分で製本した詩集を目一杯詰め、それを左手に提げたまま朗読するというストロングスタイル(画像)。

10年のブランクで「段取りを忘れて」と言っていましたが、いまだかつて段取り通りのパフォーマンスをしたところを見たことがない。愛すべきキャラクター。生来の品の良さと知性、イデオロギーと抒情。高い技術を持ちながら自ら進んで壊しにいく。ああ、この感じ!!

ジュテーム北村氏の長尺のリーディングを聴くのはひさしぶりです。西脇順三郎から三角みづ紀さんまで、大正~昭和~平成の日本現代詩クロニクルに、究極Q太郎、カワグチタケシ、ジュテーム北村自作詩を織り込んだコンセプチュアルなパフォーマンスアート。緩急をつけたドライヴ感とグルーヴで一気呵成に濃密な時間を構築し、空間を支配する声。

僕のセットリストは以下8編です。

・幾千もの日の記憶/究極Q太郎
無題(なぜ殺してはいけないか)/ジュテーム北村
都市計画/楽園
観覧車
水玉
花柄
fall into winter
・第一のフーガ(二声による)/ウンベルト・サバ須賀敦子訳)

サバのフーガは3人で輪読しました。また「水玉」と「fall into winter」はジュテさんにもカバーしてもらったので、2人のリズムや呼吸、解釈の違いが際立って面白かったのではないでしょうか。

加齢とともに意図せず出てくる大御所感を如何にして消すか、というのが昨今の課題でもあったのですが(笑)、ノスタルジーやセンチメントに流れず、アクチュアリティを持ち、且つ質の高いエンターテインメントを提供することができたのではないかと思います。


 

2017年11月11日土曜日

ネルーダ 大いなる愛の逃亡者

煉瓦造りの建築に紅葉が映える。恵比寿ガーデンシネマパブロ・ラライン監督作品『ネルーダ 大いなる愛の逃亡者』を観賞しました。

1971年にノーベル文学賞を受賞した南米チリの国民的詩人パブロ・ネルーダ。彼をモデルにした映画といえば1994年公開マイケル・ラドフォード監督の名作『イル・ポスティーノ』ですが、伊ナポリ亡命中を描いた同作の前日潭ともいえる内容です。

1946年、チリ人民戦線のガブリエル・ビデラ共産党の支持を得て大統領選に勝利した。が一転、米国の強い圧力に屈して翌年共産党を非合法化。これを告発した共産党員ネルーダ(ルイス・ニェッコ)は上院議員資格を剥奪され、指名手配される。

ネルーダはアンダーグラウンドな支援者たちのサポートを受け、妻デリア(メルセデス・モラーン)とともに国外脱出を企てる。それを追うイケメンのキャリア警視ペルショノー(ガエル・ガルシア・ベルナル)。彼らの珍道中を詩的に抒情的に美しく描いています。

そして逃亡中とはいえネルーダの行動が奔放過ぎる。行く先々の街の酒場に出入りし、あるときは全裸の美女を何人もはべらせ自らも裸でシャンパンを空け、あるときはトーチソングを熱唱するトランスジェンダーの歌姫にせがまれて詩を朗読し熱いキスを受ける。娼館の年増女に化けたり、写真館の額縁に収まったりして追手をまく。そして先住民マプチェ族の襲来に怯えながら雪のアンデス山脈を越える。

「左翼エリートは乱痴気騒ぎが大好きだ」「共産党員は労働したがらない」。体制側の大農園主に見つかりお終いかと思いきや多額の税金を徴収する大統領への恨しみからネルーダを逃がしてくれたり。思想と感情に矛盾を抱えたまま流れ流されていく男たちに比べ、「私は真実で永遠なの」と言う妻デリアの確信的で堂々とした態度。

ネルーダの作風は、エロティックな恋愛詩と大地に根ざして民衆を鼓舞するポリティカルな詩が両輪ですが、どちらもパッショネイトであるという共通点において違和感がありません。

それらネルーダ作品の朗誦を随所に挟んだ台詞回しや逃亡劇とは思えないゆったりとした演出も詩的ですが、褪色した古いフィルム写真のようなローコントラストにホワイトアウトさせた画面処理も大変詩的で美しいです。

 

2017年11月4日土曜日

ポエトリースラムジャパン2017秋 全国大会

紅葉の始まった晴海通りを西へ。晴海橋と朝潮大橋を渡って。中央区立月島社会教育会館にて開催されたポエトリースラムジャパン2017秋 全国大会に行きました。

全国で5回開催され計108名がエントリーした予選を勝ち抜いた12人が出場する全国大会。三木悠莉さんが優勝し、来年5月にパリで開かれるグランドスラム日本代表の座を手にしました。おめでとうございます。

散文的でウィットのある作風の選手が点数を集めるなか、共感やストーリーテリングよりもインディヴィジュアルなコンディションを表現することに専心し、そのためにならフォーレターワーズもためらわずに使う、若干投げやりなフロウと深い包容力を併せ持つ三木さんのパフォーマンスが抜群に冴えていました。

この大会では、観客から無作為に選ばれた5人が10点満点でジャッジし、最高点と最低点を除く中央3人の点数の合計が選手の持ち点になります。突出した好き嫌いを排除しある程度平均化した評価で勝敗が決まるルールですが、それを凌駕するクオリティと切実さが地区予選、全国大会を通じて三木さんの声と言葉には存在した。

準決勝を僅差で勝ち抜け、ファイナリスト4人に残った石渡紀美さんは黒のニットワンピースに真っ赤なスニーカー(画像)、世界のざわつきを鎮めるような落ち着いた声つきさんのすっと心の隙間に忍び込むような美声も印象に残りました。

広い舞台に一人で立つ選手たちを見ながら考えていました。朗読がアートフォームもしくは表現ジャンルとして成熟するためにはプロフェッショナルなアティテュードを持つクリティークが必要なのではないか。作品、朗読技術、声、佇まい。複合的な要素に、ひとつの正解を求めるのではなく、正解などないと断じるのでもなく、複数の正解があって、各々の価値を愛と情熱を持ってロジカルに論じられるような。

太平洋戦争中の大政翼賛的な戦争賛美詩の朗誦に対する反省から肉声を失った日本戦後詩は音韻律を否定するというかたちで世界でも特異な発展をしてきました。失われた声を再び取り戻すには「個」であることを、「個」であり続けることを決して手離してはならない、と僕は考えます。その意味でも今大会で三木悠莉さんが選手権を取ったことが僕にとってはひとつの希望です。