2024年7月15日月曜日

ルックバック

曇天。ユナイテッドシネマ豊洲押山清高監督作品『ルックバック』を観ました。

舞台は月山を望む山形市の郊外。夜の住宅地を俯瞰でカメラが降り一戸建ての玄関の灯りを映す。部屋では主人公藤野(河合優実)は机に向かっている。学年新聞に掲載する4コマ漫画のストーリー構成に頭を悩ませる藤野の表情が机上左手の鏡に映る。

ある日藤野は担任教師に呼ばれ、毎週2篇連載していたうちの1枠を京本(吉田美月喜)に譲ってやってくれないか、と言われる。不登校の京本とは一度も顔を合わせたことがない。京本の第一作「放課後の学校」はストーリーこそないが小学4年生とは思えない正確な画力に藤野は圧倒される。悔しさに猛練習する藤野だが、京本には敵わないことを痛感し6年生の途中で描くことをやめてしまった。

小学校の卒業式を欠席した京本に卒業証書を届けるように命じられ、ふたりは初めて出会う。「ずっと藤野先生のファンでした、なんで描くのを止めたんですか?」と京本に言われ「漫画賞の応募作品の構想を練っている」と強がり嘘をつく藤野。雨が降り出した畦道を小躍りしながら帰り、濡れた靴下のままペンを走らせる、一連の流れが最高です。

藤野キョウというペンネームで1年かけて45ページの短編作品「メタルパレード」を仕上げたふたり。しかし十代のサクセスストーリーは長続きしない。そして訪れるカタストロフ。藤本タツキ原作漫画は全143ページ。約10年間の時間の流れとあらゆるエモーションが58分の上映時間に適切に配置され、見事な作画によって、我々の感情を揺さぶります。派手なアクションや美少女やカラフルなアイテムは必要ない。青春の情熱と含羞が眩しい。haruka nakamuraの抑制の効いた劇伴から滲み出す感傷。いい映画を観ました。

 

2024年7月12日金曜日

言えない秘密

雨天。ユナイテッドシネマ豊洲河合勇人監督作品『言えない秘密』を観ました。

「誰?」「いまピアノ弾いていたでしょう? 邪魔したならごめん」「もう弾き終わったから大丈夫」。イギリスへの音楽留学で挫折し青葉音楽大学ピアノ科3年に編入した樋口湊人(京本大我)は、取り壊しが決まった旧校舎の3階のレッスン室から聞こえる音色に惹かれ階段を駆け上がる。内藤雪乃(古川琴音)の演奏だった。

数日後ふたりは楽典の教室で再会する。授業が終わるや否や逃げるように教室を出る雪乃。猛然と追いついた湊人は先日の楽曲名を尋ねるが、雪乃は湊人の耳元で「秘密」と囁く。湊人の行動を訝しむ音大の同級生で幼馴染のひかり(横田真悠)。3人を軸に物語は進みます。

台湾映画『不能説的秘密』、悪役の登場しないファンタジックなラブストーリーをリメイクした本作のオファーに驚いたと新聞のインタビューで古川琴音さんが答えていました。映画でもTVドラマでもやや癖のある作品への出演が多いのですが、受けたからにはしっかり期待以上のアウトプットができる実力があり、日本語的には「?」と思うようなタイトルから始まって、湊人の父親(尾美としのり)の不穏な笑顔、ピアノ科教授(皆川猿時)のハイテンション、ピアノバトルのルールやクリスマスパーティの選曲、学内ショパンコンサートの楽器編成など、ちぐはぐなところはありますが、結果的には古川琴音さんのかわいい表情と声としぐさを大画面で愛でるための映画として成立しています。連弾シーンはハートウォーミングなのにエロティックだし、全衣装かわいいです。

楽器を奏でるという行為の根底には、奏者自身の感情の乗り物である身体の拡張欲求があるように感じます。より大きく、より遠く、よりエモーショナルに。特にピアノは音域もダイナミックレンジも広く、生身の人間が出せる音の領域を遥かに超えている。ストリートピアノの奏者がよく「感情表現ができる」と言うのはそういうことなのかもしれないと、この映画を観て思いました。

 

2024年6月30日日曜日

遊戯にまつわるエトセトラ season#2

六月尽。下北沢BASEMENT BARで開催された死んだパンダ噛んだズCUICUIによる共同企画ライブ『遊戯にまつわるエトセトラ season#2』に行きました。

僕が到着したときの会場BGMはSPEEDの "BODY&SOUL"。去年TUBE。今日は90年代がテーマか。

それでCUICUIの1曲目は「ぼくたちのナツ」です。AYUMIBAMBIさん(b)の「消費されない意思があることを/あいつらは知らない」、Rui Sui Liuさん(Dr)の「ポイズンは溢れている/消えることはないけど」の歌詞とメロディはERIE-GAGA様(Key)が当て書きしているのかな、二人の声質にとても合っていると思います。

2024年リリースの最新曲「脱コミュニケーション」は歌とトランペットで音源にコラボレートしているダンサーゆんさんがMVと同じ白衣装で登場し、CUICUIの三声とはまた違う無垢な歌声に心洗われる。

今回下手最前エノシママキさん(Gt)のギターアンプのすぐ正面で聴いて、前半のメロウでアーバンな16ビートナンバーのカッティングやミュートも、後半のゴリゴリな8ビート曲のパワーコードも、一音一音に気を配った丁寧なプレーをしているんだな、とあらたな発見がありました。

死んだパンダ噛んだズの音楽を僕の引き出しにある言葉で説明するのは本当に難しくて、見た目はAUTO-MODMADAME EDWARDAなどV系ルーツ(80年代当時はポジパンと呼ばれていた)のカリカチュアライズを本気でやったらデスメタル方面にはみ出してしまった感じなのですが、oiパンク的なシンガロングもある一方、サビで開放に向かわないソングライティングはグランジの影響が濃いのかな。CUICUIの「ダンゴムシは左右交互に曲がる」のコーラスを曲中に挿し込みリスペクトを表す。

夏から一番遠い男たちが夏をなんとか捕まえようとしている、というか。アンコールでは2バンドのメンバー8人が決して広くないステージに入り乱れ H Jungle with T の大ヒット曲で会場が一体に。遊び心が両バンドの最大の共通項だと思いました。

 

2024年6月23日日曜日

アンゼルム “傷ついた世界”の芸術家


森の中に屹立する石膏のウエディングドレス。胴体は空洞で長いベールの襞には汚れた雨水が溜まっている。3Dカメラが移動したビニールハウス内にも空洞のウェディングドレスが数体。ある者は身体中にガラスの破片が刺さり、ある者は肩に重い紙束を乗せ、ある者は有刺鉄線で巻かれている。

パリ郊外クロワジーの倉庫を改装したアトリエで台車に載せた巨大なキャンバスを押すアンゼルム・キーファー。手を離すと台車は慣性で自走する。自転車にまたがり、口笛を吹きながら広大なアトリエ内を移動するキーファー。

戦後ドイツを代表する画家/現代美術作家が主人公の本作には、時代背景や作品の成立過程を説明するナレーションも存命中の画家本人や関係者へのインタビューもない。ドキュメンタリー映画というより、同じ1945年に生まれたドイツ映画の巨匠がその創造性に深く共鳴して制作したインスタレーション作品と言っていいと思います。

キーファーの石膏や鉛、泥、焦げた枯草、鋼鉄などを用いた重量感のある立体もしくは半立体作品、アトリエの奥行き、作品と制作過程のスケールの大きさを見せるうえで、3D上映が強烈な臨場感を生んでいます。リアリズムであると同時に、映像がクロスフェードする場面では立体感のある半透明な物質が非現実的に現前し、軽い目眩を覚える。

僕がはじめてキーファーの作品と対峙したのは1995年。軽井沢セゾン現代美術館でした。平面作品「ヘリオガバル」の陰鬱な均整、人毛を使用したインスタレーション「オーストリア皇妃エリザベート」の不穏な佇まい、とりわけ「革命の女たち」と題された簡素なシングルベッドに鉛のシーツが敷かれ人が寝たの跡の窪みに水が溜まった作品には、隣室に展示されたマグダレーナ・アバカノヴィッチの「ワルシャワーー40体の背中」と並んで強い衝撃を受けました。

また、廃屋に大量の砂が注ぎ込まれて再び運び出されるという、僕の詩作品「Universal Boardwalk」や「永遠の翌日」に現れるモチーフは、キーファー作品(およびジョセフ・コーネル)に影響されています。

本作中でパウル・ツェランの詩篇が複数回引用されます。ナチスの迫害から生き延び、戦後ドイツ語圏の代表的詩人となり、1970年に49歳でパリのセーヌ川に入水自殺したユダヤ人の朗読は、想像していたよりも格段に若々しく青臭ささえ感じさせる繊細な肉声でした。キーファーの師匠筋にあたるヨーゼフ・ボイスもワンシーン登場します。

 

2024年6月17日月曜日

都会の民族芸能

曇天。祖師ヶ谷大蔵 Cafe MURIUI で開催されたライブイベント『都会の民族芸能』特別編に行きました。

Chiminさんは、二宮純一さん(g)、井上"JUJU"ヒロシさん(fl, sax)とトリオで演奏、1曲目は「sakanagumo」でした。活動再開後はじめての都内ライブということでしたが、対バン形式にお呼ばれということもあり、とてもリラックスして歌っているように聴こえました。2曲目に歌った「シンキロウ」の「なぜにそんなにもかわいく生きられるの?」という歌詞が僕はとても好きです。会場の響きとトリオの音像がよく合って、いつにもまして静謐で美しく感じました。

主催者の徳久ウィリアムさん岡野勇仁さん(Pf)とのデュオ、ユージンウィリアムスで、シベリアのブリヤート族や北アジアのタタール族などの民謡をモチーフにしたチャーリー高橋さんの楽曲群を多彩な発声で表現しました。ワールドミュージッカーを自称するユージンさんの『世界の国歌総覧』コーナーも楽しかった。チャーリーさんの「地獄巡り」はmueさんのライブでしばしば演奏され、ショーロ~MPB的な捉え方をしていたのですが、原典はゴスペルなんですね。目からウロコです。

三枝彩子さんはモンゴルの伝統音楽オルティンドーの歌い手です。マイクを通さずとも会場全体を震わせる圧倒的な声量は、遠く地平線の見える草原の完全デッドな音響で何kmも離れた思い人に恋心を伝えることができる仕様になっている。オルティンドーは「長い歌」。短い歌のボギンドーも唱法的には似ているのですが、オルティンドーより音節数が多い。ヘンデルオペラ曲を、岡野勇仁さんのハープシコードの伴奏に乗せ、オルティンドーの唱法で歌ったのも素敵でした。

最後は出演者6人全員でチャーリーさんがモンゴル民謡に日本語の歌詞を乗せた「山越えの阿弥陀」を演奏・歌唱しました。

人間はリード楽器である、というのは村田活彦氏の説ですが、単音楽器である人声の表現力を高めるために、もしくは求愛行動として、人はいろいろな声を出すことに憧れる。その憧れが歌を生み、様々な装飾音を加え、ときには倍音を強調し、あるいは和音に聞こえる発声法を鍛錬する。その希求の姿勢は祈りにも似ている。そんなことを考えた梅雨入り前の夜でした。

 

2024年6月16日日曜日

SPOKEN WORDS SICK 5

夏日。渋谷Flying Booksにて開催された Splash Words presents SPOKEN WORDS SICK 5 「さいとういんこ『ハンバーガー関係の数編の詩と、その他の詩』出版記念」に出演しました。

さいとういんこさんAmazon On Demand から出版した新作詩集のリリースパーティに渋谷の人気古書店Flying Booksの出版部門SPLASH WORDSから詩集を出している4人の詩人のひとりとして参加させてもらえて大変光栄です。

一番手は小林大吾さん(画像後列左)。クールでスタイリッシュで押韻に黎明期のJ-HIPHOPの影響を感じさせつつ終始エレガント。今回最初に読んだ当時の作品「1キロメートルに祝福を」では、現在の身体性とテキスト作品にわずかな隔たりを滲ませる姿に、ポエトリー・リーディングのリアルを感じる。パイナップルとフィボナッチ数列をモチーフにした詩もフランシス・ポンジュみたいで格好良かったです。

僕は二番目に5篇の詩を朗読しました。

5. 光は讃えるだろう(さいとういんこ)

最初の2篇はSPLASH WORDS刊『カワグチタケシ詩集』収録。会場Flying Booksを歌ったSUIKAの「宙飛古書店」から1行サンプリングさせてもらったANOTHER GREEN WORLDとカバーを2篇。上記に加え、この日のためにいんこさんと書いた無題の連詩をふたりで朗読しました。

次がナーガこと長沢哲夫さん(画像前列中央)。83歳。お会いしたのは2009年にFlying Booksで開催され僕も出演させてもらったナナオ・サカキ氏の追悼ライブ以来15年ぶりです。必ずしもリフレインの多い詩ばかりではないのに、朗読がループに聴こえる。訥々として倍音を含んだ心地良い低音がドラッギィでトランシーで僕は、ピエール・アンタイのクラヴサンで聴いたスカルラッティのソナタを思い出していました。

最後は今夜の主役さいとういんこさん(画像前列左)がご自身のポートレートをプリントしたシャツで登場。SPLASH WORDSから刊行した2冊の詩集と新作『ハンバーガー関係の数編の詩と、その他の詩』と未刊詩篇をいくつか。四半世紀の友であり偉大な先輩。詩は青春の文学というが、いんこさんぐらい軽やかにチャーミングにそして強いアティテュードを携えて老境は迎えようとしている詩人はいない。と、その手前で若干もがき気味な僕は思うのです。

満員の客席には懐かしいお顔もたくさん。僕の詩をはじめて聴いたという若いお客様に詩集とカセットテープをお買い上げいただきました。この日は僕の59歳の誕生日でした。いんこさんが連詩の前にバースデーソングで祝ってくださり、終演後にFlying Books店主山路さん(画像後列右)がロールケーキを切ってくれたのもうれしかったです。皆様どうもありがとうございました。

 

2024年6月11日火曜日

プリンス ビューティフル・ストレンジ

夏日。アップリンク吉祥寺ダニエル・ドールエリック・ウィーガンド監督作品『プリンス ビューティフル・ストレンジ』を観ました。

労働力確保のために奴隷貿易でアメリカに渡った黒人たちが綿花農場で歌ったワークソングがゴスペルとブルースに発展し、洗練されてR&Bとジャズになり、ソウルミュージックが生まれる。産業構造の変化により黒人たちは米国南部の農場から北部の工業地帯に移住する。その街のひとつがプリンスの故郷ミネソタ州ミネアポリス。

このドキュメンタリーフィルムの原題 "Mr. Nelson On The North Side" の North Side とはミネアポリス市の北部の貧しい黒人居住エリアを指す。激しい人種差別に晒されていたが、公民権運動の最中の1966年、元プロボクサーのスパイク・モスが発起人となり、地域の荒廃対策としてコミュニティセンターが発足、The Way と名付けられた。The Way ではスポーツ、読書、ダンス、楽器演奏などを自由に楽しむことができ、いくつかのファンクバンドが生まれる。そのひとつ Grand Central でギターを弾いていたチビでやせっぽちの少年がプリンス・ロジャース・ネルソン。のちの大スター・プリンスである。

冒頭に字幕で「プリンス財団は本作と無関係であり/本作関係者に知的財産をライセンス供与していません」と表示される通り、この映画にはプリンスのオリジナル楽曲が使用されていません。地元の先輩や所縁のあるミュージシャンのインタビューが中心でプリンス自身のライブ映像もわずか。

観客が怖くてギターアンプを調整するふりをしてずっと客席に背中を向けていたシャイボーイがいかにしてスキャンダラスなセックスシンボルに変貌したのか、16ビートの土臭いファンクに人種を超えてウケる8ビートをどのような意識で融合したのか、鎮痛剤の過剰摂取による57歳の早過ぎる死へ至る経緯など、知りたかったことはほとんど語られない。

それでも、上述の通りオリジナル楽曲が使用されていなかったことで逆にプリンスの曲が無性に聴きたくなるという効果があります。中央線に乗ってApple Musicで "1999" を久しぶりに聴きました。

2010年頃愛聴していたメイシー・グレイの現在の姿が見られてうれしかったのと、チャックDPublic Enemy)が少年時代に憧れたミュージシャンにファッツ・ドミノと並べてネルソン・リドルを挙げていたのが衝撃的でした。