2017年12月29日金曜日

パーティで女の子に話しかけるには

年末の地下コンコースの大雑踏を抜けて。新宿ピカデリージョン・キャメロン・ミッチェル監督作品『パーティで女の子に話しかけるには』を観ました。

舞台は1977年。ロンドン郊外の寂れた街クロイドンで母親と暮す男子高生エン(アレックス・シャープ)は、地元のパンクバンド The Dyschords のライブの打ち上げ会場を見つけられない。窓から洩れる原色の照明とエレクトロニカに誘われて入った空家。そこで開かれていた6つのコロニーに属する異星人たちの摩訶不思議なパーティで出会った少女ザン(エル・ファニング)との48時間のロマンスを描くファンタジー。シャイ・パンクス meets 美少女エイリアン。

冒頭のシーン。主人公エンが自室で目覚め、パンク仕様にカスタマイズした制服に着替えて、道すがら金髪革ジャンのヴィク(A.J.ルイス)とサープラスのツナギ姿でぽっちゃり体型のジョン(イーサン・ローレンス)をピックアップして自転車3人乗りで疾走する。ザ・ダムドの "New Rose" に乗せたコマ落としのスピード感にアドレナリンが上昇する。

そしてパーティから一夜明け、公園ではじめてのデートをするザンとエン。このシークエンスのエル・ファニングの尋常ならざる可愛さ。2017年時点の全人類を代表する美少女が、常識からすこしずつずれた異星人ゆえの行為を演ずる。その破壊力は計り知れません。

エイリアンの6つのコロニーは各々シンボルマークとテーマカラーを持っています。ザンの所属するイエローの第4コロニーのマニフェストは「個性の尊重(individualism)」。それを一斉に唱和する様は individualism (個人主義)とは真逆のアイロニー。カンニバリズムはユースカルチャーを食い物にするマスメディアの隠喩か。

同コロニーで唯一のアジア系異星人を演じているのが、ロンドンとベルリンを拠点に活躍する Hinako Mastumoto さん。台詞こそありませんがひときわ目を引きます。

パンクに関して様々な角度から言及されますが、ニコール・キッドマンスージー・スー的メイクとファッションで怪演するヴィヴィアン・ウェストウッドの元店員でローカルシーンの女元締めボディシイアの「パンクはブルースの最終形。既成概念を覆せだの、自分らしく生きろだの、どうでもいい」という台詞が僕の考えに最も近いと感じました。

オリジナルスコアは Nico Muhlymatmos が担当しています。



2017年12月17日日曜日

銀河鉄道の昼

冬晴れ。高円寺純情商店街を一本入った裏路地。狭い階段を上り靴を脱ぐ。大陸バー彦六は週末の午後喫茶東京鼠になります。

詩人馬野ミキさんが今年8月に始めた月例イベント『銀河鉄道の昼』に行きました。

いまお。彼と出会ったのは確か2004年、大学コンソーシアム京都で開催されたポエトリーリーディングワークショップに僕がゲスト講師として招かれたときの参加者でした。初めて人前で朗読したというそのときのひりひりした感じをいまでも鮮明に憶えています。「詩の朗読は、詩を朗読することではなく、朗読が、詩を実現することだ。」という彼の一行が今回のイベントの惹句。幼子に「なんで朗読するの?」と無邪気に尋ねられ「話すのが下手で、書き言葉の孤独に耐えられないからだよ」と答える。

今年4月に『俊読2017』で共演したときが初対面だった吉田和史さん。音叉を叩いてガットギターを調弦するところからパフォーマンスが始まっている。リリカルかつ清澄、正確で可憐なパッセージとロマンチックな旋律に乗せ、すこし鼻にかかったハスキーボイスで歌う都市生活者の憂鬱。エドワード・ホッパーの絵画のように、人々が出会いすれ違っていく様を額縁の外から冷徹に眺めている。一人称で歌っていても乾いた眼差しが通底しているのは彼がvoyant(見者)であり、僕も自身のその傾向を自覚しているので、共感できる部分が多いです。

去年今年と最も回数多く朗読を聴いたのが小夜さんではないかと思います。畳に正座して出番待ちする姿が美しかった(画像参照)。ポエトリースラムジャパン秋大会東京Cのパフォーマンスが「動」に振り切ったものだとしたら今日は「静」。言葉と声に集中しているように見えました。「オレンジ」は昨年プリシラレーベルで1stCD『無題/小夜』を制作した際に上野動物園のフラミンゴ舎の前でレコーディングし、結局お蔵入りにした詩。もう一度あの作品に最適な環境を選んで、次のアルバムに収録したいと思います。

馬野ミキさんのポエトリーリーディングには心を掴まれるものがありますが、ガットギター弾き語りの歌もよかったです。清濁併せ呑んだ果てに小さな灯火みたいな希望と聖性をほんのすこしだけ覗かせる詩作品に対して歌詞は、より微細な繊維で濾過されたような純粋さと精神の震えめいた響きが前面に出ています。「マジでビビるこの時に/俺はひとり蟻んこを見つめている」と訳した「マイ・ウェイ」のカバーには度胆を抜かれつつ感動。

毎月最終日曜日に喫茶東京鼠で開催される『銀河鉄道の昼』。次回2018年1月28日(日)はMYヒーロー究極Q太郎氏も出演とのこと。来年を迎える楽しみがひとつ増えました。

 

2017年12月15日金曜日

冬のムリウイでノラオンナひとりウクレレ弾き語り

冴え冴えとした師走の金曜夜。祖師ヶ谷大蔵の商店街のビルの外階段を上って屋上へ。 Cafe MURIWUI で開催された『冬のムリウイでノラオンナひとりウクレレ弾き語り』に行きました。

去年の12月にも同じ会場で 港ハイライト1stアルバム「抱かれたい女」プチレコ発。このときはフルバンド編成でメンバーが料理をふるまうディナーショーでした。今夜は真っ赤なワンピースに身を包んだ ノラオンナさんが小さなウクレレを抱えてたったひとりでマイクに向かいます。

これ以上ないくらい小さく爪弾かれる繊細なアルペジオに導かれて「 愛におぼれている」で始まり「 パンをひとつ」へ。緊張と弛緩、荘厳さと軽快な大らかさを往還する波のような演奏、低音のウィスパーからソリッドなファルセットまでレンジの広い歌声で空気を振動させる。

その音楽はウクレレの4本の弦とひとりの声帯のみから発せられてはいるが、聴いている感覚としては会場全体がひとつの大きな楽器として束の間存在しているかのようです。「 港ハイライトブルーズ」「 めんどくさい」「踊りませんか?」などハイテンションなバンドサウンドで聴き慣れた曲にも欠落感はなく、歌の骨格の確かさが豊かな表情をもって奏でられ、音楽本来の愉悦に溢れています。

12月らしく"Silent Night" をイントロダクションに置いた「 流れ星」。メロウな旋律を持つサンバクラシックの " Tristeza" はあえて賑やかに。最終曲「 やさしいひと」、アンコール「 梨愛」まで途切れることのない集中力で次々に繰り出される珠玉のメロディは、一流の職人芸を目の当たりにするようでした。

来年は7年ぶりに弾き語りのアルバムを制作する予定とのこと。とても楽しみにしています。 


2017年11月26日日曜日

永遠のジャンゴ

強い風が吹きましたが、寒さがすこし和らいだ日曜日。ヒューマントラストシネマ有楽町で、エチエンヌ・コマール監督作品『永遠のジャンゴ』を観ました。

1943年6月、第二次世界大戦中ナチス占領下のパリ。ロマ(ジプシー)のギタリストでジプシー・スウィングの創始者であるジャンゴ・ラインハルトレダ・カティブ)は33歳。そのライブパフォーマンスは絶大な人気を誇っていた。

ナチスの迫害はユダヤ人だけでなく、障がい者、同性愛者、ロマにも及ぶ。モンパルナスの夜の女王ルイーズ(セシル・ドゥ・フランス)の手引きで、スイスに亡命するために妊娠中の妻と老母と共に、レマン湖畔の小さな村トノンに逃れる。そこで待っていたのはナチスの幹部たちが集うパーティでの演奏だった。負傷した英国兵を逃がすためにジャンゴはそのオファーを受ける。

定住地を持たないロマには土地の所有や国家、国境という概念がなく、ジャンゴも当初は戦争に関心がない人物として描かれています。あくまでも自身および親族の小コミュニティの快楽原則に基づき行動選択する。ナチスを憎むようになったのもペットの猿ジョコを殺されたから。

しかしナチスの残虐ぶりは凄惨を極め、仲間たちに被害が及ぶにつれ、レジスタンスに加担していきます。そして迫害されたロマの魂の救済のために壮大なレクイエムを作曲します。

舞台を1943~45年に絞ったことで、フランス・ホット・クラブ五重奏団がヴァイオリンのステファン・グラッペリ脱退後であるのは少々残念ではありますが、無理に史実を捻じ曲げない脚本には逆に好感を持ちました。十代の頃負った火傷の後遺症で不自由な左手の薬指と小指。シングルカッタウェイのセルマー・マカフェリジャンゴロジーの劣悪な音質がHi-Fiで蘇り、ジャケ写がそのままハイビジョン化して動き出したかのような演奏シーンは感動的。

非アーリア人の音楽であるジャズはナチスにとって退廃芸術。ブルースは禁止、演奏中に足でリズムを取るのは扇動行為、スウィングは20%まで、シンコペーションは5%以内、ソロは最長5秒、ウッドベースはボウイングのみ、等々、ナチスが定めた規則はアホとしが言いようがないですが、ナチ将校に「お前は音楽を知っているのか?」と問われ「そんなもんは知らん。音楽が俺を知ってるんだ」と答えるジャンゴは最高にクールです。
 
 

2017年11月25日土曜日

中田真由美の歌劇なワンマンショー!2017

晩秋から初冬へ移る街並みを関東バスの車窓から眺めながら。阿佐ヶ谷 harnessで開催された『中田真由美の歌劇なワンマンショー!2017』本編26曲、アンコールを含め全27曲を2時間強で。

4年前に下北沢SEED SHIPPoemusica Vol.22で共演したのをきっかけにその後もご一緒させてもらったり、観客としてライブお邪魔したりしています。ステージで見せる明るい笑顔とは裏腹にどこか人を寄せ付けないような雰囲気があって、面白い人だな、と思っていました。

今日のMCでも「警戒心が強くて」と言っていましたが、もしかしたらそれは誰かに裏切られないために自分を守っているのではなく、自分の才能と揺るぎなさが誰かを傷つける可能性を無意識のうちに恐れていたのかもしれません。その殻が徐々に取り払われ、オープンな空気を纏うようになって、それが歌唱にもギター演奏にも現われていました。

「僕、君と考えるのが好き」(くらげくん)という歌詞にもあるように、中田さんは考える人であり、思考の果てにポンっとホップして広大な感覚の領域に至るような音楽を創造しています。歌わせてもらう、とよく言いますが、お客様とか音楽の神様とかではなく、体内に存在する常在菌や大気中の埃粒の輝きやそういったアニミズム的なものが彼女を歌わせているように思えます。

光景が目に浮かぶような、とは詩や歌詞を褒めるときによく聞きますが、それだけじゃないと僕は思っています。意味や視覚に像を結びづらい抽象的な音や言葉の連なりであっても、それが感情や記憶のテクスチュアに直結したときに最も高揚します。中田さんの楽曲にはそういう瞬間が多々あって、僕はそこに惹かれるのだと思います。「いつもとすこし違ったものを見に行きましょうよ」(電車に乗って)、と新しい切り口で世界を見させてくれるからです。

レアな曲がたくさん聴けたのもワンマンならでは。中田さん自身が弾くギターも、2曲にゲスト参加した夏秋文彦さんHAMMOND SS S-27H(ソプラノ鍵盤ハーモニカ)の響きも大変に美しいものでした。



2017年11月18日土曜日

TQJ Poetry Reading Live

予報ほどひどい雨にはなりませんでした。文京区白山のJAZZ喫茶映画館で開催された TQJ Poetry Reading Live にご来場のお客様、映画館のマスターと絹子さん、共演者のおふたり、皆様どうもありがとうございました。

晩秋の短い日が暮れかかる3時半に始まり、5時少し前に終演する頃にはあたりは冷たく湿った宵闇に包まれていました。われわれ3人のポエトリーリーディングショーをお楽しみいただけたのなら幸いです。

究極Q太郎氏に初めて出会ったのは2000年6月、西荻窪にあったブックカフェHeartland。東京都の半透明ゴミ袋にアコースティックギターを無造作に突っ込んで、足元は健康サンダル、という姿に衝撃を受けました。今日のQさんはコンビニレジ袋に自分で製本した詩集を目一杯詰め、それを左手に提げたまま朗読するというストロングスタイル(画像)。

10年のブランクで「段取りを忘れて」と言っていましたが、いまだかつて段取り通りのパフォーマンスをしたところを見たことがない。愛すべきキャラクター。生来の品の良さと知性、イデオロギーと抒情。高い技術を持ちながら自ら進んで壊しにいく。ああ、この感じ!!

ジュテーム北村氏の長尺のリーディングを聴くのはひさしぶりです。西脇順三郎から三角みづ紀さんまで、大正~昭和~平成の日本現代詩クロニクルに、究極Q太郎、カワグチタケシ、ジュテーム北村自作詩を織り込んだコンセプチュアルなパフォーマンスアート。緩急をつけたドライヴ感とグルーヴで一気呵成に濃密な時間を構築し、空間を支配する声。

僕のセットリストは以下8編です。

・幾千もの日の記憶/究極Q太郎
無題(なぜ殺してはいけないか)/ジュテーム北村
都市計画/楽園
観覧車
水玉
花柄
fall into winter
・第一のフーガ(二声による)/ウンベルト・サバ須賀敦子訳)

サバのフーガは3人で輪読しました。また「水玉」と「fall into winter」はジュテさんにもカバーしてもらったので、2人のリズムや呼吸、解釈の違いが際立って面白かったのではないでしょうか。

加齢とともに意図せず出てくる大御所感を如何にして消すか、というのが昨今の課題でもあったのですが(笑)、ノスタルジーやセンチメントに流れず、アクチュアリティを持ち、且つ質の高いエンターテインメントを提供することができたのではないかと思います。


 

2017年11月11日土曜日

ネルーダ 大いなる愛の逃亡者

煉瓦造りの建築に紅葉が映える。恵比寿ガーデンシネマパブロ・ラライン監督作品『ネルーダ 大いなる愛の逃亡者』を観賞しました。

1971年にノーベル文学賞を受賞した南米チリの国民的詩人パブロ・ネルーダ。彼をモデルにした映画といえば1994年公開マイケル・ラドフォード監督の名作『イル・ポスティーノ』ですが、伊ナポリ亡命中を描いた同作の前日潭ともいえる内容です。

1946年、チリ人民戦線のガブリエル・ビデラ共産党の支持を得て大統領選に勝利した。が一転、米国の強い圧力に屈して翌年共産党を非合法化。これを告発した共産党員ネルーダ(ルイス・ニェッコ)は上院議員資格を剥奪され、指名手配される。

ネルーダはアンダーグラウンドな支援者たちのサポートを受け、妻デリア(メルセデス・モラーン)とともに国外脱出を企てる。それを追うイケメンのキャリア警視ペルショノー(ガエル・ガルシア・ベルナル)。彼らの珍道中を詩的に抒情的に美しく描いています。

そして逃亡中とはいえネルーダの行動が奔放過ぎる。行く先々の街の酒場に出入りし、あるときは全裸の美女を何人もはべらせ自らも裸でシャンパンを空け、あるときはトーチソングを熱唱するトランスジェンダーの歌姫にせがまれて詩を朗読し熱いキスを受ける。娼館の年増女に化けたり、写真館の額縁に収まったりして追手をまく。そして先住民マプチェ族の襲来に怯えながら雪のアンデス山脈を越える。

「左翼エリートは乱痴気騒ぎが大好きだ」「共産党員は労働したがらない」。体制側の大農園主に見つかりお終いかと思いきや多額の税金を徴収する大統領への恨しみからネルーダを逃がしてくれたり。思想と感情に矛盾を抱えたまま流れ流されていく男たちに比べ、「私は真実で永遠なの」と言う妻デリアの確信的で堂々とした態度。

ネルーダの作風は、エロティックな恋愛詩と大地に根ざして民衆を鼓舞するポリティカルな詩が両輪ですが、どちらもパッショネイトであるという共通点において違和感がありません。

それらネルーダ作品の朗誦を随所に挟んだ台詞回しや逃亡劇とは思えないゆったりとした演出も詩的ですが、褪色した古いフィルム写真のようなローコントラストにホワイトアウトさせた画面処理も大変詩的で美しいです。