1982年のイギリス、グリーナム近郊の静かな村で暮らす悦子(吉田羊)の家にロンドンでライターをしている次女ニキ(カミラ・アイコ)が帰省する。グリーナムの空軍基地周辺で起きている核兵器に反対する女性たちの抗議行動の記事を書いたニキは、母の出身地である長崎の原爆について書くことを編集者に勧められる。ニキに促されて、悦子は重い口を開く。
1952年の長崎。悦子(広瀬すず)は橋の下で男子たちにいじめられていた少女万里子(鈴木碧桜)を助け河原のバラック小屋へ送ると、派手な身なりの母親佐知子(二階堂ふみ)がいた。初対面の悦子に仕事の紹介を頼む佐知子は東京都下の出身で戦前から長崎で英語通訳の仕事をしており、近いうちに米兵フランクとアメリカに渡るという。
1954年長崎で生まれ1960年に家族と渡英したカズオ・イシグロが1982年に出版した長編小説第一作の実写映画化は、落ち着いた色調とゆっくりと流れる時間の中に不穏さを滲ませ、情感と緊張感を併せ持つ作品になりました。広瀬すず、二階堂ふみ、吉田羊(英語上手!)、カミラ・アイコが抑制の効いた見事な芝居をしています。
この映画を観て考えたことがあります。人には物語が進むにつれ後で描かれるエピソードほど真実だと思い込む習性があるのではないか、ということです。渡英した悦子の語りによる物語はニキの発見によって逆の視点から再構成され、フラッシュバックのように映画の終盤に映像化される。我々は後者を真実だと捉え、それまでの悦子の語りを小津映画の笠智衆と原節子を投影したような願望と妄想混じりのフィクションと位置付けます。そこで、真実は最後に明かされる、というミステリーの約束事を盲信しているのではないか、という疑念が湧きました。
「誰か一人でも信じる人間がいるかぎり、本当でない物語などありはしないのだ」というポール・オースターの『スモーク』の台詞の通り、二つの物語はどちらもフィクションであり、観客である我々が好きな結末を選べばいい、というメタ構造を持っている。それは、タイトルバックとエンドロールで二度にわたり流れるNew Order の "Ceremony" (1981) の歌詞 "They find it all, a different story / Notice whom for wheels are turning" (人はそれぞれ異なる物語を見出す/誰の為に歯車が回っているかを示す)にも示唆されています。
ポーランド出身のパヴェル・ミキウェティンが手掛けたサウンドトラックも素晴らしく、自死した長姉景子の部屋のドアをはじめてニキが開けるときに鳴る柱時計とカメラのストロボ音とピアノの単音で緊迫感が最高潮に。
原作小説のタイトル "A Pale View Of Hills" は原爆投下時の閃光を連想させますが、書籍と同じ邦題の『遠い山なみの光』が僕にはなぜか憶え辛い。1955年の長崎端島を舞台にした『海に眠るダイヤモンド』と重ねて観るのも面白いと思いました。
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