2021年12月27日月曜日

ジョン・コルトレーン/チェイシング・トレーン

クリスマスの翌々日。ヒューマントラストシネマ有楽町ジョン・シャインフェルド監督作品『ジョン・コルトレーン/チェイシング・トレーン』を観ました。

1957年、NY市グリニッジ・ヴィレッジのナイトクラブ、カフェ・ボヘミアマイルス・デイヴィス(tp)の第1期クインテットの演奏シーンから映画は始まる。モダンジャズのレジェンド、ジョン・コルトレーン(ts、ss)が1967年に40歳の若さで肝臓ガンにより亡くなるまでの約10年間を記録したドキュメンタリーフィルムです。

1926年生まれのコルトレーンが最初に影響されたのはチャーリー・パーカー(as)。第二次世界大戦の終戦後に徴兵され、海軍軍楽隊でキャリアをスタートさせる。退役後、ディジー・ガレスピー(tp)の楽団に加わるがヘロインで首になり、マイルス・デイヴィスのところもヘロインで首になり、自力で薬物を絶って再びマイルスの元で歴史的名盤 "Kind Of Blue"(1959)に参加する。その後独立し自身のコンボを率いてジャズの新しい地平を切り開く。

わずか10年余りの期間で、ビバップ、ハードバップ、クール、モード、フリージャズ、とモダンジャズの歴史を次々に塗り替えていった。

今や数少なくなった同世代のミュージシャン、継娘、3人の実子、研究家、コレクターがエピソードを語るのだが、神経質で天才肌の無口な芸術家という先入観が覆され、温厚で勤勉な努力家という一面が浮かび上がってきます。祖父はふたりともメソジスト派の牧師だったが、キリスト教以外にイスラム教や仏教、神道にも興味を持っていた。それが晩年(といっても30代後半)のスピリチュアルな作風に影響していたのは間違いないでしょう。

二人目の(そして最後の)妻アリスはジャズピアニストでサイババ信者。ニューポートジャスフェスティバルの凄まじいインタープレイが聴けます。コルトレーンは郊外の穏やかな暮らしの中で家事をするアリスに捧げる詩をいくつも書いた。

コメンテーターでは、真っ赤なニットキャップと同色のシャツを着て草臥れたサンタクロースみたいな90歳のソニー・ロリンズ(ts)のインパクトが半端ないです。

 

2021年12月26日日曜日

クリスマスの翌日に

クリスマスの翌日に、下高井戸のぎゃるりでんぐりさんで、さいとういんこさんとの二人会 Poetry Reading Live "On Second Day After Christmas"クリスマスの翌日に』に出演しました。

僕にとっては、2021年唯一の有観客ライブになりました。ご来場のお客様、ぎゃるりでんぐりのオーナー詩子さん、2020年末の『クリスマスの翌々日に』につづき誘ってくださったいんこさん、あらためましてありがとうございます。

1.
4. きんぴら(滝沢カレンカレンの台所』より)
5. アテネの学堂 ~Whitney Houstonに(新作)
6. 警鐘 ~Billie Eilishに(新作)

定番のウィンターソングに加え、現在制作中の連作詩「過去の歌姫の亡霊」から2篇とカバーをひとつ朗読しました。「過去の歌姫の亡霊」は、近年劇場で鑑賞したドキュメンタリー/伝記映画に基づいており、このあとAretha FranklinJanis JoplinJudy GarlandBillie Holidayが控えています。どうぞお楽しみに。『カレンの台所』はレシピ本ですが、文体が詩的でフレッシュで躍動感溢れ楽しいので、是非みなさん書店や電子書籍で読んでみてください。

さいとういんこさんは今年たくさん書いたという短編小説からの一作「一緒に暮らそう」を中心に、主宰するアートエデュケーションスクエアのワークショップから生まれた詩作品、最近blogで発表している一行詩のRemixと、2021年末らしいセットリストでした。

去年いんこさんと作った連詩「クリスマスの翌々日に」と、今年作った連詩「クリスマスの翌日に」をふたりで朗読したほか、我々の共通の友人で先月入籍したカップルにご来場いただいたので吉野弘の「祝婚歌」を贈りました。

今年設けた希望者が持参した詩を朗読するコーナーは、限定10名様のうち5人が参加してくださいました。人前で初めて自作を読むという方がふたりいて、この日この場をデビュタントに選んでもらえたことがうれしかったです。オープンマイクからは数年遠ざかってしまっていましたが、それぞれの声、それぞれの語り口で発せられる言葉を聴くことの幸福感が蘇りました。

2021年の詩の仕事はこれにて終了。既に来年決まっているライブもあり、現状の環境を踏まえよりよい接点を考えていきたいと思いますので、どうぞよろしくお願いいたします。


 

2021年12月21日火曜日

ラストナイト・イン・ソーホー

冬至前日。新宿バルト9エドガー・ライト監督作品『ラストナイト・イン・ソーホー』を観ました。

主人公エロイーズ・ターナー(トーマシン・マッケンジー)は英国南西端の辺境コーンウォール州レッドルースで祖母と二人暮らし。自死した母親の姿が見える霊能力を持つ。

母も目指した服飾デザインを学ぶため、ロンドン・カレッジ・オブ・ファッションに入学したが、ルームメイトでマンチェスター出身のジョカスタ(シノーブ・カールセン)はじめハイファッションをまとったパリピ的ライフスタイルの同級生たちに馴染めず、シャーロット通りの学生寮を出て、グージ通りのヴィンテージ物件を借りる。

古いフラットの第一夜、憧れの1960年代スウィンギンロンドンに夢で迷い込む。シラ・ブラックベス・シン)が歌うカフェドパリで出会った歌手志望のサンディ(アニヤ・テイラー=ジョイ)に自己投影する。

サンディは芸能マネジャーのジャック(マット・スミス)に自ら売り込みカフェドパリより若干小さいリアルトの舞台に職を得るが、求めていたセンターではなくバックダンサーで、裕福な中年男の客を取らされる。サンディの境遇が厳しくなるにつれ、エロイーズも悪夢にうなされるようになり、やがて現実生活を侵食していく。

エロイーズが実家の部屋のポータブルプレーヤーでピーター&ゴードンのドーナツ盤を大音量で流し自作の新聞紙ドレスで踊る華やかなオープニングに惹き込まれる。ロンドンへ移動する列車ではbeats by Dr.Dreのヘッドホンからザ・サーチャーズ。1960年代UKヒッツに彩られた本作は、後半のホラー展開においても軽快なポップチューンが流れ、それが逆に狂気を強調しています。南ロンドン出身のアフリカ系同級生ジョン(マイケル・アジャオ)のジェントルな優しさが救い。

バリー・ライアン "Eloise" やデイヴ・ディー・グループ "Last Night In Soho" の物語とのシンクロ。サンディがオーディションで歌うペトゥラ・クラークの "Down Town" は『17歳のカルテ』のオマージュなのかな。サンディ・ショウダスティ・スプリングフィールドという僕が偏愛するUK60'sアイドル2トップの歌声がたっぷり聴けるのもうれしい。

煌びやかなナイトクラブに場違いなスウェットのルームウェアのエロイーズがピンクのミニワンピースのクールなサンディと同化するシーンの鏡を使った入れ替わりの演出がスタイリッシュです。

 

2021年12月7日火曜日

ショップリフターズ・オブ・ザ・ワールド


1987年9月12日に英国メロディメイカー紙に掲載されたザ・スミス解散。米国コロラド州デンバーでスーパーマーケットに勤務するクレオ(ヘレナ・ハワード)はアルコール依存症の母親がソファで眠りこけるリビングでつけっぱなしのテレビからその一報に触れ家を飛び出す。

マドンナワナビーのシーラ(エレナ・カンプーリス)のボーイフレンドのパトリック(ジェームズ・ブルーア)はメイク男子。モリッシーに心酔し肉食とセックスを絶っていてシーラは欲求不満。クレオに恋するビリー(ニック・クラウス)は翌日に入隊を控えているがオナニーばかりしている。

錆だらけのフォルクスワーゲンでクレオが向かった先は地元のレコードショップ。店員ディーン(エラー・コルトレーン)もスミスファン。愛するバンドが解散したのに町は普段通り、と憤懣をぶつけるクレオ。ディーンもまたひそかにクレオに想いを寄せていた。

高校を卒業したばかりの4人、クレオ、シーラ、パトリック、ビリーが自棄になってパーティをハシゴしているとき、ディーンはスミスのLP、12inchと拳銃を持ってローカルFM局に押し入り、アリス・クーパーのTシャツを着たHR/HM系中年DJフルメタル・ミッキー(ジョー・マンガニエロ)にオジー・オズボーンを止めさせ「スミスの曲をかけ続けろ」と脅迫する。


80年代UKロックファンのあいだでは伝説的な実話に基づいたストーリーをスミスの名曲を章題に4幕の青春群像劇にしています。アメリカの郊外の労働者階級の閉塞感がけっして明朗とはいえないが精緻で美しいスミスの楽曲群に彩られ、登場人物の心情に音楽がシンクロし、台詞にも歌詞が引用されて、ファンにはたまらない一本になっていると思います。

はじめはスミスを毛嫌いしていたが何時間も聴かされるうちにすこしだけその魅力に気づき、徐々に心を開いて息子のような歳のディーンに自身の半生を訥々と語りかけるフルメタル・ミッキーの優しさが沁み、自分もそっち側に来たんだなと感慨深いです。

リアルタイム世代なので、東京のクラブにもマッチョな黒人のドアマンがいたなとか、ブロンスキ・ビートとか、まあ懐かしくはあります。UKインディー系バンドでは、ザ・スミス、ザ・キュアエコー&ザ・バニーメンが人気を三分しており、僕はエコバニ派でした。

モリッシーの独特な声と歌詞、ジョニー・マーの多彩で煌びやかなギターはもちろんですが、映画館の大音響で聴くとマイク・ジョイスのドラムスとアンディ・ルークのベースがタイトでヘヴィでグルーヴィで素晴らしく、演奏力の面でもザ・スミスが希有なバンドだったことがわかる。モリッシー&マーのインタビュー映像も流れ「スミスのメンバー以外に友だちはいない」というモリッシーの言葉が泣けます。


2021年12月1日水曜日

EUREKA/交響詩篇エウレカセブン ハイエボリューション


エウレカ・サーストン名塚佳織)は、情報生命体スカブ・コーラルが人間と対話するために作り出した人型のコーラリアン。自らもスカブを生成する能力を持っていたが、前作『ANEMONE』を最後にその力は失われた。

それから10年の時を経た2038年、24歳になったエウレカは独立師団無任所部隊A.C.I.D.(アシッド)の人型戦闘ロボットKFL(Kraft Light Fighter)を操る特殊戦闘員として、その恐れを知らないバトルスタイルから「鋼鉄の魔女」と呼ばれるようになった。

同じく24歳の石井風花アネモネ小清水亜美)はA.C.I.D.の機動部隊ブエナ・ビスタ機艦長を命じられ、かつて敵対し和解したエウレカとは同僚としてだけでなく友情でも結ばれている。

ハイエボリューション1』『ANEMONE』に続く劇場版三部作の完結編にあたる本作で、エウレカの任務は少女アイリス遠藤璃菜)を敵から救助し護衛すること。そしてかつてのエウレカと同じ特殊能力を持つアイリスとの逃避行が始まる。

前二作と比較してカウンターカルチャー、特に英国RAVEカルチャーに対するオマージュの度合いは低い。そのかわりRolandがスポンサーについたことでブランドロゴが頻出し、A.C.I.D.の管制室のコンソールのデザインはTR-606TB-303そのものです。統合政府軍の戦闘ロボットの名称ラブレスMy Bloody Valentineからか。その他に、白くまアイス森永製菓甘酒缶を登場人物が飲食するカットがありました。

このシリーズは設定が複雑で時間軸が並行し展開が早く情報量が多いため、とかく難解で本筋が見えにくいと言われがちですが、現実世界の訳の分からなさと比較したらそんなものじゃないかな、という感じがします。そもそも現代の映画観客の価値観が「わかりやすさ」に偏重し、理解できないものを排除する傾向に危機感を覚えるので、わからなさと美を両立させ、且つバイダイナムコや森永製菓、Rolandはじめメジャーなスポンサー企業を得て完結させ制作陣に賛辞を贈りたいと思います。

 

2021年11月26日金曜日

リスペクト

TOHOシネマズ日比谷リーズル・トミー監督作品『リスペクト』を鑑賞しました。

1952年、デトロイト。バプティスト教会の人気司祭(Master of Ceremony)である父クラレンス・フランクリンフォレスト・ウィテカー)のホームパーティで、10歳のアレサ(スカイ・ダコタ・ターナー)は "My Baby Likes to B-Bop" を歌い、その歌声はダイナ・ワシントンメアリ・J・ブライジ)、エラ・フィッツジェラルドデューク・エリントンスモーキー・ロビンソンら、招待客たちを驚かせる。

1959年、17歳になったアレサ(ジェニファー・ハドソン)は父と共に全米の黒人教会をツアーする。ひさしぶりに帰宅したアレサを迎えるふたりの息子。父のパーティの酔客にレイプされ12歳で長男を、15歳で次男を妊娠出産していた。

1972年にロサンゼルスのニュー・テンプル・ミッショナリー・バプティスト教会で行われたライブ・アルバム『AMAZING GRACE』の録音まで、ソウルの女王アレサ・フランクリンの10歳から30歳の半生記です。

別居している聡明で優しい母バーバラ(オードラ・マクドナルド)はゴスペル歌手。「歌いたい歌を歌いなさい。男も強制できない。できるのは神様だけ」と言う。マーティン・ルーサー・キング牧師と父は親交があり、公民権運動のなかでアレサは黒いジュディ・ガーランドともてはやされるが「歌をうたってみんなを戦いに送り出すだけでは十分じゃない」とアクティヴィストとしても先鋭化していく。

デビューしてしばらくヒットに恵まれなかったアレサが、一旦NYを離れ、アラバマ州のマッスル・ショールズ・スタジオで、白人演奏家たちとアイデアを交換しながら "I Never Loved A Man (The Way I Love You)" を作り上げていく過程、更にオーティス・レディングの "Respect" に二人の姉妹とコーラスアレンジを施し、マッスル・ショールズが加わってハイパーダンスチューンに仕上げるシーンにはテンションが上がります。

人種差別と性差別。自身の表現スタイルを見つけ、世間に認められ、抑圧的な父親と暴力を振るう夫(マーロン・ウェイアンズ)に三行半を叩きつけるのは痛快ですが、その後アルコールに溺れていく。幼少期からの被虐が呪いとなっているのか、自分を傷つけるものから離れることができないのがなんとも切ないです。

生前アレサが伝記映画の自身の役に指名していたという主演のジェニファー・ハドソンは熱演で歌唱力も申し分ないですが、エンドロールでスクリーンの右半分に映る73歳のアレサ本人がキャロル・キングの2015年ケネディ・センター名誉賞授賞式にサプライズ出演した際の歌声が圧倒的過ぎて、天賦の才とは、と思わずにはいられませんでした。

 

2021年11月23日火曜日

ミュジコフィリア

秋晴れ。TOHOシネマズ日比谷谷口正晃監督作品『ミュジコフィリア』を観ました。

漆原朔(井之脇海)は京都文化藝術大学美術学科の一回生。初日から遅刻し入学式は終わっていた。キャンパス(ロケ地は京都市立芸術大学)で通りがかった青田(阿部進之介)に巨大な箱を運ぶのを手伝わされる。鴨川の河原で現代音楽研究会の花見が行われており、箱はエオリアンハープ。鴨川の対岸に渡した弦を川を渡る風で共鳴させようとしていた。

宴が終わり、ひとり残された朔は明るい河原に置かれたグランドピアノを即興で奏でる。自転車で四条大橋を渡る浪花凪(松本穂香)はその音色に魅了される。凪はピアノ科の一回生。いつもアンサンブルと揉めていた。

ピアノ教室で教えるシングルマザーの君江(神野三鈴)と暮らす朔は子どもの頃からいろいろなものの色や形が頭の中で音楽として響いていた。母を捨てた作曲家の父(石丸幹二)と兄(山崎育三郎)への反発から音楽の道を選ばなかった。

「京都の庭には音のアンサンブルがある。作曲は庭造りに似ている。どこに山を作り、どこに花を咲かせ、その中を川が流れ、花を映す」。現代音楽に熱中する若者たちを描いたさそうあきら同名漫画の映画化。京都の春、夏、秋、季節の光を背景に物語が進みます。

映画後半の兄弟の確執と和解がメインテーマだと思いますが、前半の学園群像劇がいい。朔が思いを寄せる幼馴染みのヴァイオリニスト小夜(川添野愛)のプリンセス感。

ワグナートリスタンとイゾルデ』の冒頭の不協和音に始まり、シェーンベルクケージシュトックハウゼン。現代音楽の基礎的な歴史は作曲科教授で現代音楽研究会顧問役の濱田マリが易しく解説してくれるので大丈夫。「京都人の行けたら行くは信用でけへんねん」。いけずな学部長を辰巳琢郎が好演しています。

鴨川ホルモー』や『夜は短し歩けよ乙女』は京都の学生生活を描きながら標準語ですが、本作の台詞は京言葉。ひとり標準語を話す山崎育三郎演じる貴志野大成がクライマックスで一度だけ京都弁になるのが効いている。

京都の大学に進学して夏休みに再会した同級生が半年足らずで関西弁に同化していたのを映画を観ながら思い出しました。ロストジェネレーションのパリを「移動祝祭日」と表現したのはヘミングウェイですが、青春時代を京都で過ごすということも、その後いつまでもどこで暮らしても続く移動祝祭日なのだな、と周囲の友人知人を見ても感じます。

 

2021年11月14日日曜日

We can fly

秋晴れ。三鷹SCOOLにて、舘そらみ脚本・演出 ガレキの太鼓We can Fly』を観劇しました。

「みなさんようこそ来てくださいました。小学校の同級生とはそんなに連絡取ってない。誰かに相談してても気づけば相手の相談を聞いてているタイプの人たちです」。

“見よう見真似のミュージカル” の登場人物は7人。婚活中の不動産業OL(稲葉佳那子)、正義感が強く怒りっぽい青年(貴瀬雄二)、人に譲ってばかりの女(西田夏奈子)、ダメンズの彼女(日高ボブ美)、気の弱いシネフィル(ホリユウキ)、酒を愛するボクサー(奥田努)、絵描きの卵(水口早香)。

ドラマチックな展開もストーリーらしいストーリーもない。くるぶしソックスがすぐ脱げる。狭い舗道ですれ違うとき車道に出て譲ってしまう。コンビニの一番くじを店員が開けるのが許せない。彼氏がくれた誕生日プレゼントがロッテのチョコパイ。そんな日常のもやもやを時に朗々と時に切々と歌う。

ミュージカルというと感情の高まりを歌い上げるアリアやスペクタクルな群舞を思い浮かべると思いますが、これは逆転の発想。そして、普通の人たちの当人ですらしょうもないと思っている心情が歌に乗せられることによってにわかにドラマ性を帯びるという二重の逆転。どこにでもいそうな7人おのおのが愛おしい謎の感情が生まれる。

20人規模の小さな会場は満席で、コロナ後初の劇場観劇でしたが、やはり目の前で生身の人間が悩んだり困ったりしながら一所懸命に動く姿を見るのはそれだけで感動的だなと思います。

みなさんミュージカル未経験者とのことですが達者です。貴瀬雄二さん(特撮Boyz)は外見だけでなく歌声もイケメン。稲葉佳那子さん(こちらスーパーうさぎ帝国)はまっすぐな熱演でしたが、実は「以後お見知りおきを~♪」の合唱時のステップが超絶可愛かったです。

ご縁があって何度か共演したことのある西田夏奈子さんは、いままでどちらかというと強めな性格の役柄を見る機会が多かったのですが、今作では気弱な役を普段よりかなり声量控えめ、歌唱力も封印気味に演じており、自己表現よりも作品に奉仕するその引きの芸に痺れました。

強くなりたいだけ、悩みはないというボクサー奥田努さん(Jr.5)の「悩みとかある人はすごいな、そういう生き方って恰好良いなと思います」という言葉にこの舞台のメッセージが集約されていると思います。フィナーレの「しょうもない私であることを受け入れて始めませんか?」に大変前向きな気持ちにしてもらいました。

 

2021年11月12日金曜日

そして、バトンは渡された

秋晴れ。TOHOシネマズ日比谷にて前田哲監督作品『そして、バトンは渡された』を鑑賞しました。

小学生のみいたん(稲垣来泉)は製菓会社勤務の父水戸(大森南朋)と二人暮らし。友だち思いの泣き虫でいつもみいみい泣いているからみいたんと呼ばれている。チョコレート作りのためにブラジルに移住する父。みいたんは継母の梨花さん(石原さとみ)と日本に残ることを選ぶ。梨花さんはみいたんに愛情を注ぎ「笑っていれば必ずラッキーが転がり込む」と教える。

優子ちゃん(永野芽郁)は笑顔の絶えない高校三年生。誰にでもふりまく笑顔が敵を増やしている。継父(田中圭)のことを親しみを込めて「森宮さん」と呼ぶ。クラスでは若干浮いており、卒業合唱のピアノ伴奏を押しつけられ、別のクラスの伴奏者でリストを弾きこなす早瀬くん(岡田健史)に惹かれていく。

2019年本屋大賞を受賞した瀬尾まい子同名小説を実写化した作品は、前半がみいたんと優子ちゃんのふたつの時間軸で構成されており、ふたりの物語がつながる中盤にカタルシスがあります。残り1時間は優子と早瀬による「親巡りの旅」。ここで伏線が回収されるのですが、よくある終盤にどさどさという感じではなく、ゆっくり時間をかけて回収される伏線は、前半の不穏な空気と裏腹に、結果的には悪者の登場しないこの作品を特徴付けるタイム感を持っています。

血縁ではない親子が自然に無償の愛情で結びついている様子が感動的。それは頻繁に登場する食事シーンや調理中の田中圭と永野芽郁のシンクロした動きなど随所で表現されています。

過干渉でちょっとヒステリックな母親を演じさせたら戸田菜穂は本当に上手い。賀来千香子と双璧かと思います。

最近の石原さとみは往年の大女優のような風格を身につけてきました。娘の卒業式で、まぶたいっぱいにためるだけためた大量の涙を、まばたきひとつで一気に決壊させる。その技術の高さと技術を感じさせないリアリティ。素晴らしかったです。

 

2021年11月3日水曜日

ジョゼと虎と魚たち


地方大学の工学部の学生ヨンソク(ナム・ジュヒョク)は坂道で車椅子から投げ出され倒れているジョゼ(ハン・ジミン)を助け、5千ウォン払ってリアカーを借り、壊れて動かない電動車椅子とジョゼを町外れの家に送り届ける。
 
生まれつき足が不自由で歩けないジョゼは廃品を拾って生計を立てている老婆(ホ・ジン)とふたり暮らし。アイロンをひっくり返したホットプレートでスパムを焼きヨンソクにふるまう。

田辺聖子短編小説犬童一心監督が渡辺あや脚本で当時22歳の池脇千鶴と23歳の妻夫木聡を撮った2003年の実写版はゼロ年代の恋愛映画の金字塔。2020年のタムラコータロー監督、清原果耶中川大志劇場アニメに続きリメイクされた今作は韓国映画らしい綺麗なメロドラマに仕上がっています。

ハン・ジミンのジョゼは、池脇千鶴のように傍若無人でもなく、清原果耶のように身勝手でもなく、無口で他人を寄せ付けない。ラフマニノフ緩徐楽章のようにロマンチックで感傷的なNARAE(ナレ)のスコアが全編に流れ、俯瞰ショットとスローモーションを効果的に取り入れた秋、冬、春の背景は潤いがある。静かな映画ですが、主人公ふたりの姿が美しく、それだけで画面がもちます。

2003年版では車、2020年アニメ版では電車での移動がストーリー上の重要なファクターになっているが、本作において移動はiPhoneディスプレイ上のGoogleストリートビューに置き換えられており、タイトルの「魚」が象徴する閉塞感を表現しつつ、サイバースペース内とはいえふたりをスコットランドまで連れて行く。調理音や咀嚼音、枯れ葉がアスファルトに落ちる音、雪を踏む靴音、これら生活音を丁寧に掬いとって、映画の静謐さを更に強調しています。

それにつけても、工学部の学生が常時チェックのネルシャツを着用するのは日韓共通なんですね。長身で小顔のナム・ジュヒョクが着るとネルシャツの最高峰という感じがしました。

 

2021年10月23日土曜日

スターダスト

秋晴れ。TOHOシネマズ シャンテにてガブリエル・レンジ監督作品『スターダスト』を観ました。

1971年、ワシントンD.C. ダレス国際空港の税関で24歳のデイヴィッド・ボウイジョニー・フリン)は足止めをくらっていた。3rdアルバム『世界を売った男』のプロモーションのための全米ツアーに招かれたはずが、興業ビザは用意されておらず、女装のボウイに審査官の疑念の目が向けられた。

数時間後、ようやく入国審査をパスしたボウイをマーキュリーレコードのA&Rマンであるロン・オバーマンマーク・マロン)がピックアップするが、ライブのブッキングはおろかホテルの予約すらされておらず、宿泊先はオバーマンの実家。新譜は音楽ジャーナリストに「悲惨、陰鬱、不可解」と烙印が押され、オバーマン以外のマーキュリーレコ―ドの社員からも不評だった。

デイヴィッド・ボウイが1972年に発表したロック史上の名盤『ジギー・スターダスト』でブレイクする以前の下積み時代を描いた映画ではありますが、ボウイの遺族側から楽曲の使用許可が下りなかったことで、実在のミュージシャンを主人公にした映画としては変わり種となったと言ってていいと思います。その条件で、どうモチベーションを保って制作したのか、監督のインタビューをいくつか読んでみたところ、グレーテストヒッツMV的な束縛から解放されてボウイの内面を掘り下げることができた、ということではありましたが。。

兄弟で観に行ったライブ会場で突然倒れ、統合失調症で入院する兄テリー(デレク・モラン)。精神疾患を持つ親族が他にも複数おり、いつか自分も精神に異常をきたしてしまうのではないかという強迫観念を持つボウイ。兄の見舞いで見た役を演じることによって障がいの苦痛を軽減するセラピーから生まれた別人格ジギー・スターダスト。という流れは確かに理解できました。

自身ミュージシャンでもあるジョニー・フリンがコンタクトレンズでオッドアイを再現しボウイ役を好演しています。オリジナル作品をいくつか聴いてみましたが、声質と発声がボウイに似ていると思いました。One believer can change the world. という自らの言葉を現実にしたオバーマンとのバディもののロード・ムービーとしては悪くないです。

笑えるところもあります。

①ロンドンのパーティ会場のVIPルームで詩を朗読してバンギャたちにキャーキャー言われる小太りのマーク・ボランジェームズ・ケイド)。

ヴェルヴェット・アンダーグラウンドのライブでテンションの上がったボウイが打ち上げで暑苦しく歌詞を讃えた相手がルー・リードではなく後任のダグ・ユールだった(オバーマンはその場で気づいていたが面白がって後で教えた)。

③ジギー・スターダストの初回公演の本番前、アンジージェナ・マローン)が用意したサテンやスパンコールの衣装を本気で嫌がるザ・スパイダース・フロム・マーズのメンバーたち。特にミック・ロンソンアーロン・プール)の拒絶っぷりがひどい。

 

2021年10月19日火曜日

ジャズ・ロフト

夜のにわか雨。Bunkamuraル・シネマで、サラ・フィシュコ監督作品『ジャズ・ロフト』を観ました。

報道写真家ユージーン・スミス(1918-1978)は出版社との摩擦、家族との離別により、郊外の豪邸を出て、NY市マンハッタン6番街821番地、花問屋街に建つ老朽化したアパートメントに住まいを移しスタジオとする。そこにジャズマンたちが集まり、夜更けから明け方までセッションを繰り広げた。

1957~65年、8年間の記録を膨大なポートレートと、当時を知るミュージシャン、写真家、元隣人、音楽ジャーナリスト、研究者たち、50人以上の証言を編集したドキュメンタリーフィルムです。

「常にジャズは居場所を求めていた」「当時は演奏できる場所は少なかったが、クリエイティブな空間があると評判になっていた」。

映画は大きく3つのパートで構成されています。第一にユージン・スミスの栄光と挫折、第二にズート・シムズを中心とするジャムセッション、第三に "The Thelonious Monk Orchestra At Town Hall" のセロニアス・モンクホール・オーヴァートンによるリハーサル。

ユージーン・スミスは動画を撮影しておらず、ロフトの風景はモノクロのスチール写真のカットアップと音声によって表現されます。スミス自身が高価な機材を購入し録音したテープは演奏だけでなく会話や電話の音なども録音状態が良く、当時の空気が生々しく伝わってくる。特に、モンクの "Little Rootie Tootie" のエキセントリックな和声をピアノで解析しホーンアレンジに昇華するオーヴァートンとのやりとりは興味深い。ミュージシャン以外に、サルバドール・ダリノーマン・メイラーの姿も写っています。

ジャズにはつきもののドラッグですが、朝まで眠らずに仕事を続けるためにユージーン・スミスはアンフェタミンを常用していた。おそろしいほどのエナジーが渦巻き、「25歳でバーンアウトしてしまった」というドラマーのロニー・フリーの言葉にマスネのオペラ『マノン』のアリアが重なる終盤は痛々しいです。

スミスの写真の技法についても言及されています。現像した印画紙が乾く前に漂白剤を浸した綿棒で擦ることでハイライトをつけて、あのドラマチックな陰影を作っていたんですね。知りませんでした。

 

2021年10月17日日曜日

サウンド・オブ・メタル ~聞こえるということ~


主人公ルーベン・ストーン(リズ・アーメッド)は2ピースデスメタルユニットBLACK GAMMONのドラマー。ギター/ボーカルのルー(オリビア・クック)とは恋人同士で、トレーラーハウスに乗って旅をしながらライブハウスで演奏する日々を送っている。

ある日、ライブの物販準備中に聴覚の異変に気づく。身の周りのあらゆる音がくぐもって聞える。医者にかかると、既に聴覚の70~80%は失われており、回復させるには4~8万ドルと高価なインプラント手術が必要だと言われる。ルーは、事実が受け入れられず自暴自棄になるルーベンを、ベトナムで戦闘中の爆発により失聴したジョー(ポール・レイシー)が山奥に建てた聾者のグループホームに連れて行く。共同生活する大人の聾者の多くは依存症もしくは依存症経験者だった。

従軍看護師の母親と米国中の基地を転々としながら育ったルーベンは根無し草。手首に多数のリスカ痕のあるルーとトレーラーハウスだけが安息地だったのでしょう。そこから切り離され、外界と連絡を禁じられたホームの閉塞感、毎朝5時にテーブルひとつしかない部屋でノートに文字を綴らなければならない苦行。自分自身と正面から向き合うのは容易いことではありません。

他の入所者や聾学校の生徒たちとの交流から徐々に心を開き、手話を身につけていく過程は希望が見えますが、ルーベンの求める未来はそこにはなかった。

2021年度アカデミー賞音響賞を受賞した本作品は音響効果が見事の一言。難聴者に聞こえている世界を体感することができます。僕自身、30代前半に左耳の突発性難聴を患ったことがあり、片耳で一時的とはいえ同様な聴覚を持った経験からリアルに感じられました。インプラント後のパーティの喧噪や大聖堂の鐘の音の金属的な聴覚は耐えがたく、話されている言葉の意味はわかっても人声や生活音の心地良さが失われてしまうことについての是非を考えさせられる。失聴はハンディキャップではなく静寂の中にこそ平穏があるという、ジョーの言葉が響きます。

バリアフリー上映ということで、聴覚障害を持つ方にもわかるように、台詞の上に役名が表示され(不調和な音が響き出す)(メタル音楽の演奏)(ひずんだ)(穏やかな)といった括弧付きの字幕が表示され、聞こえない人が映画をどう観ているのか、一端を垣間見ることができます。一点(悲しげなBGM)は僕には悲しげには聞こえませんでした。

タイトルは『サウンド・オブ・メタル』ですが、メタルの概念が爆発的に拡大細分化している現在、一概に言えない面があるにせよ、ルーベンがIRON MAIDENMETALLICAではなく、YOUTH OF TODAYパーカーEinstürzende NeubautenG.I.S.M.のTシャツを着ているのに象徴されるように、BLACK GAMMONの音楽はハードコア、ポストパンク寄り。トレーラーハウス内にはGAUZE自殺のポスターが貼ってあり、米ハードコアシーンで1980年代の日本のパンクロックがリスペクトされていることがわかります。

 

2021年10月9日土曜日

TOVE/トーベ

夏日。ヒューマントラストシネマ有楽町にて、ザイダ・バリルート監督作品『TOVE/トーベ』を観ました。

映画は1944年第二次世界大戦下のフィンランドの首都ヘルシンキの防空壕から始まる。30歳のトーベ・ヤンソンアルマ・ポウスティ)は、油彩抽象画をそっちのけで画用紙に小さな妖精たちの走り書きばかりしている。国民的彫刻家の父ヴィクトルロベルト・エンケル)は保守的な芸術観の持ち主で娘を認めようとしない。

ホームパーティで出会った左派議員で新聞社勤務の妻帯者アトス・ヴィルタネンシャンティ・ルネイ)と不倫関係にありながら、自身の個展のレセプションで声をかけてきた市長の娘で舞台演出家のヴィヴィカ・バンドラークリスタ・コソネン)とも肉体関係を持つ。トーベにとってヴィヴィカははじめての同性の恋人だった。

ムーミンの作者トーベ・ヤンソンの約10年間を描いた伝記映画ですが、物語やキャラクターの誕生秘話というよりも、バイセクシュアルであるトーベの複雑な恋愛感情に焦点を当てた演出です。現在はリベラルで高福祉、多様性を重んじる印象のあるフィンランドでも、1971年まで同性間の性行為が違法とされていました。
 
たいていの集まりには遅刻して到着するトーベ、個展に出品したくわえ煙草の自画像を父親に裏返しにされてしまうトーベ、法を犯しても愛するヴィヴィカに裏切られても自分の意思を貫くトーベを映画監督でもあるアルマ・ポウスティがチャーミングに演じています。

北欧映画らしい色調の美術と衣装が魅力的なのと、殊に音楽が素晴らしいです。蓄音機から流れるデューク・エリントンカウント・ベイシーのビッグバンドジャズ、当時のシャンソンマッティ・バイの控え目なピアノ中心の劇伴で、各場面で実際に奏でられている音楽と主人公たちの脳内で鳴っている音楽が音響処理的に区分されている。市長の誕生日の夜に雪の積もったバルコニーでトーベとヴィヴィカが踊っているとガラス扉が開いてフロアで演奏しているジャズが流れ込んでくるシーンやエッフェル塔を想うトーベが実際にパリに到着した途端にリバーブがドライに転換するところは痺れました。

 

2021年9月29日水曜日

映画大好きポンポさん

水曜夜。キネカ大森杉谷庄吾人間プラモ】原作、平尾隆之監督脚本作品『劇場版 映画大好きポンポさん』を観ました。

時代は現代、映画の都ニャリウッド。オープニングシークエンスはミュージカルです。目の下にいつも隈のある主人公ジーン・フィニ(清水尋也)は、ジョエル・ダヴィドヴィッチ・ポンポネット、通称ポンポさん(小原好美)のアシスタント。

伝説的プロデューサーJ.D.ペーターゼン(小形満)の孫娘であるポンポさんは、引退した祖父から映画作りの才能と人脈をすべて引き継いでいたが、わかりやすいB級映画を偏愛し、「海と水着と主演女優のきれいな体を見てもらいたいなって」と、自らもその制作に専心していた。

オーディションに現れた新人女優ナタリー・ウッドワード(大谷凜香)を一度は落としたポンポさんだが、何か気になる彼女を再び呼び、脚本を当て書きした。ポンポさんが書いた "MEISTER" の監督に大抜擢されたのは、助監督経験もないジーン青年だった。

映画作りを描いた映画は古今東西に数多ありますが、21世紀前半を代表する傑作が誕生したと言ってもいいんじゃないでしょうか。

「ものづくりを志している人間がフツウなんてつまんないこと言ってんじゃないわよ」「自分の直感を信じないで何を頼りに映画を撮ればいいのよ」。通常は、脚本執筆、オーディション、スタッフ集め、撮影という過程を中心に描かれることの多いジャンルですが、この映画はその後の編集作業の描写に多くの時間が割かれます。その結果どうしても必要になったシーンの追加撮影のための資金繰り、キャストとスタッフの再アサインという難題をプロデューサーのポンポさんと乗り越えていく。

72時間の撮れ髙のフィルムを劇場公開用にする編集作業は、デスクのディスプレイにひたすら向き合い、編集ソフトをマウスで操作するという、画的には地味な作業ですが、アニメの長所を最大限に活かして、ダイナミズム全開のハイテンポ、ハイテンションな映像表現でまったく退屈しないどころか、新人監督の苦悩と歓喜が最高潮に伝わってきます。

映画は最終的には監督のものと言いますが、華やかに見える俳優の芝居はあくまでも素材であり、編集にこそ真骨頂があると言えましょう。

「2時間以上の集中を現代の観客に求めるのは優しくないわ」というポンポさんには大共感。そりゃまあ『ライト・スタッフ』も『女優フランシス』も『惑星ソラリス』も名作であることは間違いないですが、ウディ・アレンのいつも90分前後の作品が僕は好きです。

 

2021年9月24日金曜日

中田真由美 スペシャルLive こえをうたうひと ❷

秋分の翌日。祖師ヶ谷大蔵ウルトラマン商店街をてくてく歩いてCafe MURIWUIへ。『中田真由美 スペシャルLive こえをうたうひと ❷』に行きました。

1曲目は昨年リリースされたmini album『ざぶん』収録の「いつかお空の上で」。中田さんのライブは2017年11月に阿佐ヶ谷 harnessで開催された『歌劇なワンマンショー!』以来4年ぶりで、その間、2019年に2nd album『ユメノワナ』を発表し、昨年東京から長野に移住されました。

2曲目の「あめおとひかり」は、2013年に下北沢Workshop Lounge SEED SHIPPoemusica Vol.22で初共演した際に最も感銘を受けたナンバーです。今夜は夏秋文彦さんの口琴が加わった『ユメノワナ』ver.で。

細いがクリアなウィスパーからアジアの湿度を感じさせる強いこぶしまで、とその中間的なもの、多彩な声色。誰も思いつかないようなのに懐かしさもある即興的な旋律に乗せる喃語じみたスキャット。変わらない歌声は心地良く響く。

従来の中田さんの音楽の最大の美点と考える、最小限の歌詞と音を用いてミニマルな位相から言葉にすると抜け落ちる何かを繊細に掬い取る力に加え、「夢からさめても」や「zabun」のように大きな展開の曲想もものにして、しばらく会わないうちに前進した姿を頼もしく感じました。

夏秋文彦さんという熟練の良き理解者のサポートが、より自由な領域拡大を可能にしたのだと思います。一方で、投影機材の調整の時間に歌った「すてきをさがス」の鼻歌感も中田さんには失ってほしくない。

途中、夏秋さんのソロ曲「おりる」、俳優椎名琴音さん監督主演のMV「あいをまもるよ」、中田さんの「Jerryfish」をフィーチャーした衣装作家村上美知瑠さんSleeptravellingブランドPVの上映を挟み、フィナーレは「あいをまもるよ」を中田真由美さんと椎名琴音さんの二声のハーモニーで締めました。

ライブというのは、同じ時間と空間にたまたま居合わせた人たちが秘密を共有することだと思います。緊急事態宣言により20時閉店という制約があり、アンコール込み11曲というコンパクトなワンマンライブでしたが、この心地良い秘密の中にもっと長く居たかったです。

 

2021年9月10日金曜日

ショック・ドゥ・フューチャー

ひさしぶりの真夏日。新宿シネマカリテマーク・コリン監督作品『ショック・ドゥ・フューチャー』を観ました。

主人公アナ(アルマ・ホドロフスキー)の朝の目覚めから映画は始まる。カセットテープでCerroneの "Supernature" をかけ、くわえ煙草にTシャツ、ショーツで股関節ストレッチをする。

部屋の片面を埋め尽くすRoland System700(モジュラーシンセサイザー)。インドを放浪中の友人ミシェル・マニャフスキから部屋ごと借り受けている。反対側には自身のYAMAHA CS-80ゴダールポスターパティ・スミスLPジャケット。1978年。クラフトワークが "The Man Machine" をリリースし、Yellow Magic Orchestraが世界デビューする前年のパリで新しい音楽を創造しようと模索する女性ミュージシャンの波乱の1日。84分の映画の大半はパリのアパルトマンの一室を舞台に描かれる。

「80年代になったら新世代はロックに見向きもしなくなる。ロックコンサートは臭くて汚い」。プロデューサー(フィリップ・ルボ)には何度もビズをされ、機材の修理屋(テディ・メリ)には高価なリズムマシン Roland CR-78を貸し出す見返りにキスを求められる。当時の男性優位な業界のセクハラも描かれる一方、スロビング・グリッスルアクサク・マブールの新譜を聴かせてくれる老レコードコレクター(ジェフリー・キャリー)や業界の大御所に酷評されて凹む主人公を「人生で大切なのは転んだ回数より起き上がった回数だ」と励ます弁護士ポール(ローラン・パポ)はいい奴です。

部屋を訪ねてきた歌手のクララ(クララ・ルチア―二)。オープンリールを何度も巻き戻してアナの作ったトラックに歌詞と旋律を当てていく。初対面のふたりが音楽制作を通じて意気投合していくシークエンスにはわくわくしました。

初監督のマーク・コリン自身もミュージシャンで、当時のニューウェーブの名曲、レア曲に違和感のないオリジナル曲と劇伴を自ら制作しています。「スーサイドは好みじゃない」と主人公に言わせるのも好感が持てる。

原題は "Le Choc Du Futur" アナとクララが共同制作する曲名の仏訳ですが、ハービー・ハンコックの "Future Shock" は1983年リリースなのと、歌詞の内容からいってもアルビン・トフラーの『未来の衝撃』(1970)へのオマージュと考えていいと思います。

 

2021年9月9日木曜日

テーラー 人生の仕立て屋


ギリシャの首都アテネ、オーダーメイド紳士服店の二代目ニコス(ディミトリス・イメロス)は父(タナシス・パパヨルギウ)の経営する店で14歳から36年間職人として働いてきたが、オフィスウェアのカジュアル化に加え、リーマンショックとその後のギリシャ経済危機によって店は閑古鳥。融資の返済ができずに差押え寸前なところに創業者の父が病に倒れる。

偶然店の前を通りかかった古書販売のリアカーを見て移動販売をしてみるが、さっぱり売れない。ウェディングドレスは作れる? という客の一言に、はじめは断るが、背に腹は代えられず猛勉強して一着納品したところ評判となり、婦人服で次第に客が増える。

父は「時代は変わった、それが世の常だ」と言うが、職人のプライドから息子の転向を受け入れられない。

喜劇ではあるのですが、とても静かな映画でした。無口な主人公はじめ台詞が極限まで切り詰められており、またニコス・キポロゴスが担当する音楽の使い方が特徴的です。ミシンとオーケストラ、羽箒とシンバルのブラシワークなど、生活音と楽器演奏のシンクロを多用し、ニコスと隣のアパートに住むロシア系移民のタクシードライバーの妻オルガ(タミラ・クリエバ)の50代同士の恋愛のロマンチックで不穏な空気を演出しています。ギリシャには旧ソ連諸国独立以降の内戦状態から亡命した移民が多く流入しているので、その暗示もあるのかもしれません。

トリッキーなカメラアングルにも、本作が初長編映画の女性監督のただならぬセンスが滲む。移動販売の車両が、拾った廃材で自作したリアカー、SUZUKIのオートバイ、シトロエンと出世する、わらしべ長者みたいな展開が楽しく、子役は愛くるしく、郊外の町並みも背景のエーゲ海もただただ美しいのですが、銀行のエレベーターが止まっていたり、父親の入院先の病院にシーツ、タオル、ハンドソープを自前で持ち込まなければならなかったりと、経済危機の深刻さをあらためて感じました。

 

2021年8月28日土曜日

サマー・オブ・ソウル(あるいは、革命がテレビ放映されなかった時)

猛暑日。TOHOシネマズ日比谷アミール・“クエストラブ”・トンプソン監督作品『サマー・オブ・ソウル(あるいは、革命がテレビ放映されなかった時)』を鑑賞しました。

人類が月面に到達した1969年夏、ウッドストックフェスティバルから100マイル離れたニューヨーク市ハーレムのマウントモリス公園で開催されたブラックカルチャーの祭典 Harlem Cultural Festival。主催者によって収められ50年間お蔵入りしていたフィルムを、現代の生演奏 HIP HOP バンド The Roots のドラマー Questlove が、当時のニュース映像や、関係者、観客のインタビューを交えて再編集した劇場映画です。

雨傘を広げる観客。19歳のスティーヴィー・ワンダーのドラムソロから映画は始まる。あたかも夏の一日のような作りですが、三日三晩連続の有料コンサートだったウッドストックとは異なり、1969年6~8月の日曜午後に6回に分け開催された無料公演は延べ30万人の観客を集めた。MCのトニー・ローレンスの衣装がしばしば替わることからもわかります。

グラディス・ナイト&ザ・ピップスディヴィッド・ラフィン(ex.ザ・テンプテーションズ)ら、モータウン勢の折り目正しさ。体調不良とは思えないマヘリア・ジャクソンの常人離れした声量と脇で支えるメイヴィス・ステイプルズニーナ・シモンのポエトリーリーディング(というよりアジテーション?)が個人的にはハイライト。

当時のニューヨーク市リンゼイ市長もステージに上がり、MAXWELL HOUSE COFFEEがスポンサーにつく。TVニュースの取材で「国は月に行く予算を貧困対策に回すべきだ」と答える観客。昼間の演奏シーンしかないのは、低予算で照明機材が借りられず、自然光でライブを行ったから。そのためステージは午後の日当たりの良い西向きに設置された。

1969年に20代だった観客も70代。人種差別撤廃、公民権運動運動を指示したジョン・F・ケネディ大統領ロバート・ケネディ上院議員マルコムXマーティン・ルーサー・キング牧師、1964~68年に起こった4人の暗殺。その後全米で続く暴動、略奪。不満のはけ口としてフェスが開催されたのではないか、と後年考えるようになったと当時当時大学生だった男性観客、音楽が自分たちのルーツと誇りと団結の象徴になったという女性ジャーナリスト。どちらも祭りの本質を突いていると思います。

ジャズ、ブルース、ゴスペル等、アフリカ系ルーツの音楽だけでなく、モンゴ・サンタマリアレイ・バレットら、カリブ、ニューヨリカンのラテンルーツにも広く目配せする一方、女性ミュージシャンはシンガーを除くとマヘリア・ジャクソンのピアニストのみ。

その中で強烈に異彩を放つのがスライ&ザ・ファミリーストーン。"Sing A Simple Song"、"Everyday People"、"I Want to Take You Higher"。人種性別混成で繰り出す狂騒的且つクールなグルーヴは他のアクトを全て過去のものにしてしまうフレッシュな勢いがあります。

フィルムの保存状態も大変良好で、リマスターされた音質もクリア且つ豊か。曲中にインタビューを挟むなという意見もあるでしょうが、BLM運動の現在において再検証されるべきヒストリーに対して真摯な制作姿勢だと僕は感じました。

 

2021年8月25日水曜日

子供はわかってあげない

猛暑日。イオンシネマ市川妙典沖田修一監督作品『子供はわかってあげない』を観ました。

映画は劇中劇の架空アニメ『魔法左官少女バッファローKOTEKO』のそれなりに長いシーンから始まり、お茶の間で夕方の放送を観終わって、ED曲を振りコピする父娘にパンします。

マイナーアニメKOTEKOを偏愛する主人公朔田美波(上白石萌歌)は高2の水泳部員。背泳ぎの練習の合間に見上げた校舎の屋上で書道部2年生の門司昭平(細田佳央太)が毛筆でKOTEKOを描いているのを見つけ階段を駆け上がる。

田島列島が2014年にモーニングに連載した原作漫画は単行本になったときに読んでいました。ひと夏のボーイミーツガールと思いきや、朔田さんの実父探しに雇った探偵は門司くんの性転換した兄(千葉雄大)、あっさり見つかる実父(豊川悦司)は隠遁中の新興宗教の教祖だった。というトリッキーな展開にも関わらず、心理の闇には潜り込まず、爽やかな青春コメディに仕立てた原作の雰囲気をフィルムに定着させることに成功していると思いました。

「なんでもかんでも漫画を映画にするなってことです。私らアニヲタの願いです」という主人公の科白にきちんと応え、出会いのシーンでは上履きのラインの赤色で同学年を認識する、背泳ぎのスイマー目線の水中CCDカメラの躍動感、等々、映像作品ならではの趣向も洒落ています。

主人公のふたり、上白石萌歌の細すぎないボディシェイプと物語が進むにつれ日焼けする顔。TBS日曜劇場『ドラゴン桜』でブレークした細田佳央太の全力ダッシュ、モノローグやナレーションのない脚本ですが、表情だけで複雑な感情を余すことなく伝える豊川悦司の見事な技術。千葉雄大の安定感。実母役の斉藤由貴、継父役の古舘寛治。みんなそれぞれの立場で上手さと優しさを最大限発揮している。

音楽は牛尾憲輔agraph)。KOTEKOのOP曲「バッファローのコテくるり!」とED曲「左官のこころで」はアニソンですが、劇伴は『サイダーのように言葉が湧き上がる』のエレクトロニカとは異なり、『歌劇カルメン』のハバネラをモチーフにした生楽器中心の変奏で、日常からちょっとだけ浮遊するような本作の空気感をしっかりと支えています。

 

2021年8月14日土曜日

BLACKPINK THE MOVIE

小雨。TジョイPRINCE品川で、チョン・スーイーオ・ユンドン監督作品『BLACKPINK THE MOVIE』を観ました。

グローバル規模でBTSに次いで成功している韓国のポップグループ BLACKPINKは、ジスジェニーロゼリサの4人組。2016年8月のデビューから5周年を記念して、またコロナ禍によりコンサートツアーができないかわりにBLINK(ファンの愛称)へのギフトとして制作された映画。

2019~2020年のワールドツアー "IN YOUR AREA"、2021年のオンラインライブ "THE SHOW" とバックステージ、メンバー個々のインタビュー映像により構成されています。

映画冒頭の有観客ライブ "DDU-DU DDU-DU" の重低音とリサの高速ラップで一気に世界に惹き込まれる。計算しつくされたパフォーマンスは360°クール。あえてカラフルポップではなくドープでダウナーなR&Bで世界を席巻したTEDDYのサウンドプロデュース。

半完成品を供給し、メンバーと運営とヲタクの共謀関係の中で、拙さを愛で、成長を見守る、日本のアイドル文化の位相とはまったく異なる。

「私って意外と強いんだなと思いました」(ジス)、「辛かった記憶を消しているみたい」(リサ)。文字にすると若干悲壮感がありますが、笑顔で答える彼女たちの印象はナチュラル&ポジティブ。スクリーンに映し出される個性の異なる4人の姿を101分間集中して見つめていたら、すっかりファンになってしまいました。

世界中のスタジアムに集まった観客はほとんどが十代女子。北米や欧州公演でもアジア系だけでなく、白人黒人の観客が目立つ。媚びないポップアイコンとして、自立したいガールズのロールモデルとして、広く支持されているのが伝わってきます。

映画館の客席も8割がた若い女性。ひとりで来ている人も友だちと連れ立ってきている人も笑顔で帰っていきます。高校生らしきふたりの「かわいさしかない」「それな」という会話が印象に残りました。

 

2021年8月13日金曜日

イン・ザ・ハイツ

八月の曇り空。丸の内ピカデリー ドルビーシネマにて、ジョン・M・チュウ監督作品『イン・ザ・ハイツ』を鑑賞しました。

マンハッタン北部、ブロンクスの西、ハーレムの北、ジョージ・ワシントン橋の袂ワシントンハイツは中南米移民の街。ドミニカ共和国にルーツを持つ移民二世のウスナビ(アンソニー・ラモス)は、亡き両親から受け継いだ雑貨店を従弟ソニー(グレゴリー・ディアス4世)と営んでいる。

ウスナビの片思いの相手はバネッサ(メリッサ・バレラ)。地元の美容院でネイリストをしながら服飾デザイナーになることを夢見ている。ニーナ(レスリー・グレイス)は幼い頃から成績優秀、カリフォルニアの名門スタンフォード大学に入りコミュニティの期待を背負ったが、人種差別に悩みワシントンハイツに帰郷する。ベニー(コーリー・ホーキンズ)はニーナの父親が経営するタクシー会社の配車係。ニーナの元カレだ。

この男女4人を軸にしたひと夏の青春群像劇は、リン=マニュエル・ミランダ作2008年度トニー賞受賞のブロードウェーミュージカルの映画化。

「夢っていうのは綺麗に磨かれたダイヤじゃないの」「些細なことでいい、私たちの尊厳を示すの」。ドミニカだけでなく、プエルトリコ、コスタリカ、メキシコなど複数のルーツを持つ住民たちの多くは不法滞在者のため行政サービスを享受できないかわりに、濃密な人間関係に支えられた相互扶助により暮らしが成り立っている。

決して楽ではない暮らしも、サルサ、ルンバ、カリプソ、メレンゲなど、狂騒的なラテンのリズムで乗り越える。ティーンエイジャーの頃、放課後に地元の公園のサイファーでラップのスキルを磨いたという主人公ウスナビのライムがそのビートに対峙する。4人の主役だけでなく、主なサブキャラにもアリアが割り当てられ、歌声がみな素晴らしいです。

冒頭の高圧洗浄機のリズム、プールの大群舞の俯瞰ショット、アニメーション表現や壁伝いのデュオダンスなど、映画ならではのカタルシスも満載。『シカゴ』『ラ・ラ・ランド』と並ぶコンテンポラリーミュージカルシネマの傑作と言っていいと思います。

そして、悪役が登場しない。現実はそうはいかないと思いますが、映画の登場人物はみな善意によって行動しており、それが鑑賞後の爽快感につながります。

ほとんどの場面において、対話は台詞、モノローグは歌唱、という棲み分けがなされていてわかりやすいですが、路上で大声で心情吐露を熱唱したらみんなに聞こえちゃうよ、と余計な心配は不要です。ミュージカルなので。

 

2021年7月30日金曜日

サイダーのように言葉が湧き上がる


人に話しかけられたくなくていつもヘッドホンをしている17歳男子チェリー(市川染五郎)は夏休み、ぎっくり腰の母親の代役でデイサービスの介護アルバイトをしている。スマイル(杉咲花)は16歳の人気ライバー(動画配信主)。コンプレックスの大きな前歯を矯正中でマスクが手放せない。

地元のショッピングモールでぶつかったふたりが落としたスマホを取り違えたことで始まり、デイサービスの徘徊老人藤山(山寺宏一)の思い出のピクチャー盤「YAMAZAKURA」を探す、ひと夏のボーイミーツガール。

だるまの名産地小田市は高崎市がモデル。水田の畦道の先に建つモールの内部だけ都市を感じさせる。SNSの「いいね」を通してお互いを意識する恋のはじまり。チェリーは会話が苦手で、俳句なら上手く言葉にできると言う。夕暮れの畦道を歩きながら即興で詠んだ「夕暮れのフライングめく夏灯」を「かわいい」と肯定するスマイル。17歳の17音。

俳句甲子園もあるので、高校生にとって俳句はそこまで遠い存在ではないと思いますが、自己流ではなく、教則本や句誌を読み、歳時記を常に持ち歩き、攝津幸彦の名句を諳誦するチェリーの創作姿勢に好感を持ちました。

思い切った句跨ぎや若々しい喩を持つ作風が、スマイルへの想いが募る恋句になると感情に押されて月並みな表現になる脚本演出がリアルで巧み。俳句監修は黒瀬珂瀾さんUPJの打ち上げか何かの席で一度だけご一緒したことがありますが大層なイケメンです。

下北沢の書店フィクショネスが2014年に閉店するまで、10年以上毎月開催された句会に参加していたのですが、僕にとって俳句とは、選択と配列の文芸です。例えばタイトルになっている「サイダーのように言葉が湧き上がる」を「サイダーが言葉のように湧き上がる」と置き換えたときの意味とニュアンスの差異、音韻の変化を捉え、表現したいイメージに最も近いものを選択する。『角川季寄せ』は僕も愛用していました。

その意味で「山桜かくしたその葉ぼくはすき」の中七だけを溢れる感情のクレシェンドに任せて次々に差し替えていくクライマックスシーンは句作そのもの。結果的に「好きだー!」という叫びは俳句としては凡庸なのですが「雷鳴や伝えるためにこそ言葉」(黒瀬珂瀾)です。

鈴木英人テイストの背景の描線と色彩、大貫妙子フジヤマレコード(三軒茶屋に実在する1984年創業のインディーズ系レコード店)。1970~80年代のJ-POP(と当時はまだ呼ばれていなかったが)カルチャーへのオマージュが随所に。スマイルの本名がユキで三姉妹の動画配信ユニット名がオレンジサンシャインなのはJUDY AND MARYだから~90年代かな。スコアは牛尾憲輔agraph)のエレクトロニカ、甘酸っぱい青春ドラマにフィットしています。

 

2021年7月22日木曜日

竜とそばかすの姫

真夏日。シネマイクスピアリ細田守監督作品『竜とそばかすの姫』を観ました。

舞台は現代の高知県。清流仁淀川のほとり、JR土讃線沿線、吾川郡いの町あたりか。主人公は、幼いころに目の前で起きた水難事故によって母親(島本須美)を亡くした、自己肯定感の低い高校二年生の内藤鈴(中村佳穂)。亡き母が教えてくれたDTM、歌うことを、トラウマにより拒絶している。

「ようこそ<U>の世界へ。現実はやりなおせない、でも<U>ならやり直せる」。親友のヒロちゃん(幾田りら)が教えてくれた仮想現実SNS<U>。耳に装着したデバイスによりオリジン(ユーザー)の生体情報から本質的な性格や隠れた才能を凝縮して表出させたAsと呼ばれるアバターを生成する。鈴のAsであるBelleは<U>の歌姫となり、50億人のユーザーから絶賛とアンチのコメントを集める。

2009年公開の『サマーウォーズ』はとても好きな作品です。その細田監督が12年ぶりに仮想世界を描く作品を楽しみにしていました。この12年間でスマートフォンが普及し、ネットワークの通信速度とデータ量は膨大になり、SNSが文字通り良くも悪くももうひとつの社会として成立しました。

コミュニティを荒らす竜(佐藤健)と、正義と秩序の大義のもとにオリジンを特定して叩く自警組織ジャスティスは、実際のネットワーク社会のメタファーと受け取りました。竜が倒したジャスティスがポリゴン化するのはアイロニーが利いています。

仮想世界で『美女と野獣』をやりたかったという監督の意向をストレートに反映して、仮想世界をCGで表現したBelleのキャラクターデザインはディズニープリンセス、竜の城もディズニー感が強いです。一方で、現実世界は手書きアニメ、川面の光の反射や粉雪の描写などこのうえなく繊細で美しい。

竜を救うために葛藤の末、Belleが仮想世界で本来の鈴の姿を晒すことを決意することがストーリー上の大きな転換点ですが、その逡巡に共感できなかったのはジェネレーションの差なんでしょうね。僕みたいなオールドスタイルには、オンラインであれオフラインであれ、実名で顔出ししてはじめて責任ある言動ができる、顔出しするのがネットリテラシが低いのではなく、リテラシの低い人が顔出しするのがリスクだ、という固定観念があります。

またBelle(=鈴)が竜に惹かれる過程や毒親の無力化など、エピソードによる登場人物の感情の動きの裏付けが甘いのは、物語の基本構造がミュージカルだから。ラスト近く仮想世界の数億人のシンガロングで感動してしまうのは、音楽と映像の力にほかなりません。

2014年に下北沢SEED SHIPで、当時まだ大学生だった中村佳穂さんと一度共演したことがあります。彼女はその後すぐに大きなフェスに出演したりと大活躍していますが、今回この役によりまた多くの聴衆を得ることをうれしく感じています。

 

2021年7月13日火曜日

ジャニス・ジョプリン

火曜日。シネ・リーブル池袋でデヴィッド・ホーン監督作品『ジャニス・ジョプリン』を鑑賞しました。

松竹ブロードウェイシネマと銘打たれているとおり、2013年からマンハッタン西45丁目の Lyceum Theatre で興行されたミュージカル・ショー"A Night with Janis Joplin" を劇場公開用にフィルムに収めた映画です。

1943年テキサス州の湖畔の町ポートアーサーに生まれたジャニス・リン・ジョプリンメアリー・ブリジット・デイヴィス)。父親は石油会社の社員、専業主婦の母、弟と妹の5人家族、白人の中産階級出身。テキサス大学を中退後、サンフランシスコのヒッピーコミューンでシンガーとして名声を高めた。27年の生涯で発表したアルバムは4枚。デビューからわずか3年余の活動期間だったが、ロック史には欠かせないレジェンドのひとりだ。

ジャニス役を演じるメアリー・ブリジット・デイビスが、8人編成の生バンドをバックに、圧倒的な歌唱力で名曲群を歌い上げ、その合間にライフストーリーを語るモノローグが挿入される。金属的な倍音と包み込むような温かみという相反する要素が共存するジャニスの歌声をよく再現しています。ジャニスが影響を受けたゴスペルやソウルシンガーたちを4人の黒人女性俳優(Aurianna AngeliqueAshley Tamar DavisTawny DolleyJennifer Leigh Warren)が演じ分けていますが、彼女たちにはほぼ科白がありません。

"Summertime"、"Piece Of My Heart"、"Ball And Chain" など代表曲のいくつかは、ソウルシンガー役の正統的な歌唱の直後にジャニスの解釈で歌い直されることにより、後にLed Zeppelinロバート・プラントや更にその影響を受けたGreta Van Fleetジョシュ・キスカによって現代まで受け継がれる、ブルースを基調としながら、極度の緩急でHIPHOP的と言えるほど歌詞を詰め込むジャニスの特異なスタイルが浮き彫りになります。

ゼルダになってスコット・フィッツジェラルドに出会いたい。ずっとビートニクになりたかった、ビートニクになって人生を楽しみたかった。と語るジャニスの文学少女的な側面にも言及されるのが興味深い。

ジャニスのオーヴァードーズによる死は舞台上では直接的に描かれませんが、主役不在のステージで、ベッシー・スミスオデッタニナ・シモンエタ・ジェイムズアレサ・フランクリン、過去の歌姫たちの亡霊が集合し、ボブ・ディランの "I Shall Be Released" を歌うシーンは泣かせます。

ロッククリシェともいえる「自由とは失うものがないということ」は "Me And Bobby McGee"、「窓辺に座って雨を見ていた」は "Ball And Chain" の歌詞なんですね。映画になると字幕が付くからそういうのも分かっていいな、と思いました。
 

2021年7月11日日曜日

BILLIE ビリー

通り雨。角川シネマ有楽町で開催中の Peter Barakan's Music Film Festival で、ジェームズ・エルスキン監督作品『BILLIE ビリー』を鑑賞しました。

1978年ワシントンD.C.で謎の死を遂げたユダヤ系米国人ジャーナリストのリンダ・リプナック・キュールが、ビリー・ホリデイ(1914-1959)の評伝を執筆するために1960年代から8年間にわたり取材したビリーの家族、共演者、スタッフ、関係者のインタビューが200時間以上のカセットテープに記録されていた。

著者の急逝により評伝は未完に終わったが、当時を知る人々の肉声と記録映像を再構成した映画が2019年に英国で制作されました。

1914年メリーランド州ボルティモアの貧しい地域で生まれ母子家庭で育ったビリー "レディ・デイ" ホリデイ(本名エレオノーラ・フェイガン)。生活のためローティーンで売春を始め、14歳で母娘はニューヨーク市に転居し、翌年にはハーレムのナイトクラブで歌い始め、特別な声と類稀な表現力でジャズ、ブルース界を席巻する。

白人ビッグバンドと共演した初めての黒人歌手となるが、1930~40年代の米国における人種差別、ジャズという男性社会の性差別的な扱いは苛烈で、夫たち、恋人たちのDVに耐えながら、はじめは大麻、そしてコカイン、ヘロイン、阿片、LSDに依存していく。名声ゆえに連邦麻薬取締局のスケープゴートにされ、3度の逮捕、服役。そのたびにショービズ界にカムバックするが衰えは隠せず、1959年7月17日ハーレムの病院で心不全で死亡する。

彼女が革新的だったのは己を歌ったこと(レスター・ヤング
私が歌うのは私や友だちの人生に人生になにかしら関係のあること(ビリー・ホリデイ)

ベニー・グッドマンカウント・ベイシーアーティ・ショウカーメン・マクレエジョー・ジョーンズ、ジャズ界のレジェンドたちだけでなく、プロデューサー、ナイトクラブ経営者、ヒモ、麻薬の売人、麻薬捜査官、刑務官までもが惜しげもなく披露する危ない裏話の数々。バイセクシャルでセックス依存、被虐性嗜好、といった側面はこの映画を観て知りました。

奇妙な果実」は全盛期といえる1939年、25歳のときの作品。この時代にこの歌詞を歌うことは相当な覚悟が必要だったことが当時の映像からも伺える。まだ40代前半なのにすっかりやつれ老けた痛々しい外見にもかかわらず、1959年の最後のテレビ出演時の "I Loves You, Porgy" の歌唱は天使のように美しく感動的です。

エラ・フィッツジェラルドが「彼は出て行った」と歌うと「パンでも買いに行った」って感じなのに、ビリーが歌うと「二度と帰ってこない」と聞こえる。お茶の間BGMになることを頑なに拒む歌声は劇場やジャズ喫茶で聴くのが似合うと思いました。

 

2021年7月9日金曜日

ビリー・アイリッシュ 世界は少しぼやけている


2001年12月生まれ、現在19歳の世界的ポップアイコンが、13歳のときにダンス講師に転送する目的でサウンドクラウドにアップロードした自作曲Ocean Eyes(作編曲は兄フィニアス)で注目を浴びてから、2020年1月に18歳でグラミー賞6部門のトロフィーを手にするまでの約4年間に密着したApple TV+オリジナルコンテンツの劇場公開です。

ロサンゼルス郊外の雑草だらけの平屋に両親と兄と老犬と暮らすビリー・アイリッシュ。作曲もレコーディングも兄フィニアスのベッドルームで。その制作スタイルはセレブとなった現在も同じで、変わったのは手持ちのダイナミックマイクがポップガード付きのコンデンサーマイクになったことぐらい。

たとえ鼻歌でもスクリーンの中で彼女が歌いはじめれば劇場の空気がビリー・アイリッシュ色に染まるのが、当たり前なのに鳥肌が立つ。共同制作者の兄との関係性は歳の近い十代の兄弟らしく、幸福な内輪ネタの笑いとじゃれあいで満ちている。ビリーにピアノとウクレレを教えたのは母親。進歩的で優しく、コマーシャリズムにも配慮しつつ、基本的には兄妹がやりたくないことからは守る、距離感が絶妙。そして役者の父親は娘を穏やかに見守る。ビリー・アイリッシュを通して、アメリカのリベラルな家族の肖像が描かれています。

過度なストレスにより発作が出るトゥレット症候群(チック)、捻挫癖のついた右足首、リストカット、恋人Qとのすれ違い、ライブ後のミート&グリートに対する苦痛。マネジメントサイドがよく許可したなと思うぐらい赤裸々ですが、ぶっちゃけが持ち味な彼女だから、それも魅力的に映りました。

なぜ多くの人たちがこんな自分を好きになってくれるのかわからなかったが、自分が彼らと同じ問題を抱えているからだと気づいた、と言う。飛び降り自殺を暗示させる歌詞の必然性を母親に問われて、歌うことで実際にしなくて済む、と答える。

ライブの観客は同世代の女子がほとんど。歌詞、サウンド、絶妙にダサいファッションとヘアメイク、思春期ならではのぽっちゃり体型。クラスの勝ち組でない層には自分事として刺さるのでしょう。

コーチュラフェスティバルで15万人の聴衆の前で堂々とパフォーマンスし周囲は絶賛するも新曲の歌詞をトバしたことを悔やむが、直後に会場で憧れのジャスティン・ビーバーにハグされ、激励のDMを音読してうれし涙を流す。このシークエンスがハイライトと感じました。

ショーは好きだが作曲は嫌い、ということですが、僕が一番テンションが上がったのは自宅での制作シーンです。兄妹がベッドに腰掛けて、生ギターと2声で旋律と和声を組み上げる繊細な作業が、エレクロトニックな重低音を暴力的に増幅した最終形態においても存在感を失わない。それこそが彼女の音楽の最大の魅力ではないかと思います。

Apple TV+の配信でも視聴可能ですが、大音量で聴いてこその彼女の音楽ですので、映画館で鑑賞してよかったです。


2021年6月16日水曜日

さよなら私のクラマー

誕生日。新宿バルト9宅野誠起監督作品『映画 さよなら私のクラマー First Touch』を鑑賞しました。

恩田希(島袋美由利)は蕨市立藤第一中2年生。小学校時代は技術の高さでスポーツ少年団の男女混成チームの中心選手として活躍していたが、地元中学には女子サッカー部がなく、男子サッカー部に入部した。

チームの誰よりもテクニックがあるが、1年生で出場した最初の公式戦で相手ディフェンダーのタックルを受け昏倒。成長期の女子に怪我をさせる訳にはいかない、という鮫島監督(遊佐浩二)の方針で試合から遠ざかっている。

原作は新川直司の漫画『さよならフットボール』。現在テレビ放映中のアニメ『さよなら私のクラマー』では高校女子サッカーが描かれ、劇場版はその前日譚にあたる中学編です。

華麗なボール捌きで観る者を魅了するファンタジスタの希が、中学生になって身長や筋力で男子選手に圧倒されるなかでいかに自分の居場所をつくるか、その葛藤と成長の物語。小学4年までは子分のように従えていた泣き虫のナメック(土屋神葉)が転校して4年後、対戦校江上西中のキャプテンマークを巻いた屈強なセンターバックとなり立ちはだかる。

ナメックもタケ(逢坂良太)もテツ(内山昂輝)も、同級生たちは思春期を迎え、選手としてだけでなく恋愛的な意味でも希のことが好き。なのに鈍感ガールの希は露ほども気づかず、サッカーにしか興味を示さない。希の幼馴染みでマネージャーの佐和を若山詩音が好演、ナレーションも務めています。

2Dと3Dを併用したCGアニメ―ションで、同監督によるテレビ版では、原作漫画の繊細なタッチと比較して、日常を描いた2D部分のモーションに固さを感じますが、映画版は滑らかに改善されており、スカイカムのような俯瞰を多用した試合シーンの3DCGには視覚的なカタルシスがある。

競技名を示す一般名詞としての「サッカー」と、理想の状態を表す抽象概念としての「フットボール」。その呼び名を登場人物たちは意図的に使い分けています。クライフベッケンバウアーカントナジダン、随所に挙げられる往年の名選手たちの名前は、我々オールドファンにもぐっとくるものがあります。


 

2021年6月6日日曜日

アメリカン・ユートピア


トーキング・ヘッズという紹介が不要なほど充実した音楽活動を45年に亘り行っているデイヴィッド・バーンが2018年に発表したアルバム『アメリカン・ユートピア』。翌年ブロードウェイで開かれたライブショーをスパイク・リーが撮った。ライブ映画のレジェンドに名を連ねること必至のマスターピースが生まれました。

三方が軽金属のすだれで囲まれたステージの中央に置かれたデスクにひとりライトグレーのスーツに裸足で人間の脳の模型を手にしたデイヴィッド・バーン。真上からの俯瞰ショットでまず摑まれる。2曲目からは男女2名のダンサー。曲が進むにつれてメンバーが増えていくのは1984年の名作ライブ映画『ストップ・メイキング・センス』と同じだが、時を経てよりミニマルに格段に自由に進化している。

年齢人種セクシャリティも様々な12人のミュージシャンがひとりひとりの身体にストラップで装着した楽器はワイヤレスで増幅される。マーチングバンドのドリルというまさにアメリカ的なフォーマットを用いてステージ内外を縦横に移動しながら演奏する様は緻密に構成されていながら全員が心からその場にいることを楽しんでいるように見え、1曲終わるごとに映画館の客席で拍手したい衝動に駆られます。特に "I Dance Like This" ~ "Bullet" の流れとラスト3曲のテンションはすさまじく、コンサートホールの観客も総立ちに。本編の最終曲で楽器を降ろした演者たちのライトグレーのスーツの背中ににじむストラップ型の汗染みがフィジカル的にもタフな音楽であることを雄弁に物語っていました。

楽曲のテンポに合わせて小気味よく切り替わる画面の、ほとんどのショットは、真正面、真上、真横から。スクエアなアングルでスパイク・リーのカメラが捉える。

MCも示唆と機知に富んでおり、トランプ政権下のアメリカのリベラル層の苦渋とそのなかにも希望を見いだす祈りにも似た知性をもって、時にメタフォリックに時にストレートに客席に語りかける。ブライアン・イーノに勧められ、ダダイズムの詩人、クルト・シュヴィッターズヒューゴ・バルの詩に曲をつけたエピソードも音声詩の実演とともに紹介しています。

人間の脳細胞同士のつながりは出生直後が最も多く、成長するにつれ失われていくとバーンは言う。混沌として不必要な(と脳が判断した)つながりが消えていき、よりロジカルに効率的になることで失われる何か。それを他人とのつながりで補うことができるのではないか、音楽が、ダンスが、詩が、人と人とをつなぐのではないか。BLMへの言及含めこのコンセプトを僕は受け取りました。

終演後、客席で魂を抜かれたように呆然と立ち尽くす若い観客と私服に着替え楽屋口から自転車で帰宅する出演者たち(デイヴィッド・バーンの私服はノースフェイスの白いダウン)。高揚感と多幸感と日常過ぎる日常の混在をエンドロールに重なるデトロイトの公立高校の生徒たちが歌う "Everybody's Coming To My House" があたたかく包みます。

1970年代後半のNYパンクでラモーンズの対極にいたインテリバンドのトーキング・ヘッズ。どこか牧歌的なトーキング・ヘッズより同じインテリ系でも神経症的なテレヴィジョンに当時は惹かれましたが、歳を重ねて良さがわかるようになりました。

 

2021年5月22日土曜日

同行二人#隅田左岸 A POETRY READING SHOWCASE XI

梅雨のはしり。2010年村田活彦さんと始めた毎年一度の朗読二人回『同行二人 A POETRY READING SHOWCASE』の11回目「同行二人#隅田左岸」が終了しました。

最初の緊急事態宣言発出直後に急遽、有観客で予定していた清澄白河のCafe GINGER. TOKYOさんからの配信ライブとなった昨年の「同行二人#言葉とともに」に続き、今年は村田さんの自宅のリビングルームからツイキャスによる配信を行い、約70名のみなさんにご視聴いただきました。どうもありがとうございます。

僕のセットリストは下記の通りです。

 2. スピードシャッター(村田活彦)
 4.
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 5. 空爆の夜(村田活彦)
10. 永遠の翌日 

ほかに村田さんが、僕の「都市計画/楽園」と "Misty" の訳詞を朗読してくださいました。撮影を担当してくれたあられ工場さんもありがとうございました。

新型コロナウィルスの影響はもちろん、ガザ地区、ヤンゴン、新疆ウイグル自治区、香港、世界情勢が同時多発的に揺れ動く渦中にあって、小さな個人にできること、すべきことを声と言葉に込めてお届けするのが今日の個人的なテーマでした。

クロージングのMCでも言ったのですが、案外普通のことしか言ってないな、と自作を振り返りつつ、普通のことの何を言うか、どう言うか、こそが詩なのだな、と感じた一日でした。

江東区永代一丁目の村田さんの自宅は、ベランダから隅田川の悠大な流れを見下ろす永代橋東詰に建つマンションの10階です。15時開演ということで、午後の明るい外光と開放的な視界の効果もあり、落ち着いたパフォーマンスができたのではないかと思います。

ツイキャスの仕様を充分理解しておらず、途中すこし中断してしまい、2つに分かれていますが、アーカイブはこちらからご覧いただけます。

同行二人として12年目の2022年、または更に先になるかもしれませんが、是非またみなさんに直接お目にかかり、電子回路越しではなく、生の声と言葉を手渡せることを願っています。それまでは同行二人の旅を止めない所存でございます。みなさまもどうかすこやかに。