2021年6月16日水曜日

さよなら私のクラマー

誕生日。新宿バルト9宅野誠起監督作品『映画 さよなら私のクラマー First Touch』を鑑賞しました。

恩田希(島袋美由利)は蕨市立藤第一中2年生。小学校時代は技術の高さでスポーツ少年団の男女混成チームの中心選手として活躍していたが、地元中学には女子サッカー部がなく、男子サッカー部に入部した。

チームの誰よりもテクニックがあるが、1年生で出場した最初の公式戦で相手ディフェンダーのタックルを受け昏倒。成長期の女子に怪我をさせる訳にはいかない、という鮫島監督(遊佐浩二)の方針で試合から遠ざかっている。

原作は新川直司の漫画『さよならフットボール』。現在テレビ放映中のアニメ『さよなら私のクラマー』では高校女子サッカーが描かれ、劇場版はその前日譚にあたる中学編です。

華麗なボール捌きで観る者を魅了するファンタジスタの希が、中学生になって身長や筋力で男子選手に圧倒されるなかでいかに自分の居場所をつくるか、その葛藤と成長の物語。小学4年までは子分のように従えていた泣き虫のナメック(土屋神葉)が転校して4年後、対戦校江上西中のキャプテンマークを巻いた屈強なセンターバックとなり立ちはだかる。

ナメックもタケ(逢坂良太)もテツ(内山昂輝)も、同級生たちは思春期を迎え、選手としてだけでなく恋愛的な意味でも希のことが好き。なのに鈍感ガールの希は露ほども気づかず、サッカーにしか興味を示さない。希の幼馴染みでマネージャーの佐和を若山詩音が好演、ナレーションも務めています。

2Dと3Dを併用したCGアニメ―ションで、同監督によるテレビ版では、原作漫画の繊細なタッチと比較して、日常を描いた2D部分のモーションに固さを感じますが、映画版は滑らかに改善されており、スカイカムのような俯瞰を多用した試合シーンの3DCGには視覚的なカタルシスがある。

競技名を示す一般名詞としての「サッカー」と、理想の状態を表す抽象概念としての「フットボール」。その呼び名を登場人物たちは意図的に使い分けています。クライフベッケンバウアーカントナジダン、随所に挙げられる往年の名選手たちの名前は、我々オールドファンにもぐっとくるものがあります。


 

2021年6月6日日曜日

アメリカン・ユートピア


トーキング・ヘッズという紹介が不要なほど充実した音楽活動を45年に亘り行っているデイヴィッド・バーンが2018年に発表したアルバム『アメリカン・ユートピア』。翌年ブロードウェイで開かれたライブショーをスパイク・リーが撮った。ライブ映画のレジェンドに名を連ねること必至のマスターピースが生まれました。

三方が軽金属のすだれで囲まれたステージの中央に置かれたデスクにひとりライトグレーのスーツに裸足で人間の脳の模型を手にしたデイヴィッド・バーン。真上からの俯瞰ショットでまず摑まれる。2曲目からは男女2名のダンサー。曲が進むにつれてメンバーが増えていくのは1984年の名作ライブ映画『ストップ・メイキング・センス』と同じだが、時を経てよりミニマルに格段に自由に進化している。

年齢人種セクシャリティも様々な12人のミュージシャンがひとりひとりの身体にストラップで装着した楽器はワイヤレスで増幅される。マーチングバンドのドリルというまさにアメリカ的なフォーマットを用いてステージ内外を縦横に移動しながら演奏する様は緻密に構成されていながら全員が心からその場にいることを楽しんでいるように見え、1曲終わるごとに映画館の客席で拍手したい衝動に駆られます。特に "I Dance Like This" ~ "Bullet" の流れとラスト3曲のテンションはすさまじく、コンサートホールの観客も総立ちに。本編の最終曲で楽器を降ろした演者たちのライトグレーのスーツの背中ににじむストラップ型の汗染みがフィジカル的にもタフな音楽であることを雄弁に物語っていました。

楽曲のテンポに合わせて小気味よく切り替わる画面の、ほとんどのショットは、真正面、真上、真横から。スクエアなアングルでスパイク・リーのカメラが捉える。

MCも示唆と機知に富んでおり、トランプ政権下のアメリカのリベラル層の苦渋とそのなかにも希望を見いだす祈りにも似た知性をもって、時にメタフォリックに時にストレートに客席に語りかける。ブライアン・イーノに勧められ、ダダイズムの詩人、クルト・シュヴィッターズヒューゴ・バルの詩に曲をつけたエピソードも音声詩の実演とともに紹介しています。

人間の脳細胞同士のつながりは出生直後が最も多く、成長するにつれ失われていくとバーンは言う。混沌として不必要な(と脳が判断した)つながりが消えていき、よりロジカルに効率的になることで失われる何か。それを他人とのつながりで補うことができるのではないか、音楽が、ダンスが、詩が、人と人とをつなぐのではないか。BLMへの言及含めこのコンセプトを僕は受け取りました。

終演後、客席で魂を抜かれたように呆然と立ち尽くす若い観客と私服に着替え楽屋口から自転車で帰宅する出演者たち(デイヴィッド・バーンの私服はノースフェイスの白いダウン)。高揚感と多幸感と日常過ぎる日常の混在をエンドロールに重なるデトロイトの公立高校の生徒たちが歌う "Everybody's Coming To My House" があたたかく包みます。

1970年代後半のNYパンクでラモーンズの対極にいたインテリバンドのトーキング・ヘッズ。どこか牧歌的なトーキング・ヘッズより同じインテリ系でも神経症的なテレヴィジョンに当時は惹かれましたが、歳を重ねて良さがわかるようになりました。