2026年5月16日土曜日

霧のごとく

夏日。ヒューマントラストシネマ有楽町チェン・ユーシュン(陳玉順)監督作品『霧のごとく』を鑑賞しました。

1953年(民国42年)戒厳令下の台湾中部嘉義近郊の農村。14歳の阿月(ケイトリン・ファン)は、反体制運動に加担して追われサトウキビ畑に隠れている兄育雲(ツェン・ジンホア)に食事を届けに来た。潜伏して3カ月。育雲は、阿迷と阿水、2つの水滴が蒸発し、雲になって砂漠に雨を降らせる物語を聞かせ、腕時計を阿月に残し逃げるが、秘密警察に捕えらえられる。

1年後、両親の墓参から帰宅した阿月に兄の訃報が届く。銃殺刑されて遺体は台北の極楽斎場にあるが、引き取りには銃弾料、保管料、埋葬料、運搬料などで一家の数ヶ月分の生活費にあたる大金が必要と言われる。僅かな貯金と兄の形見の腕時計を持ち、汽車を乗り継いで到着した台北で、女衒に騙され遊郭に売られそうになった阿月は、輪タクの車夫の趙公道(ウィル・オー)に助けられる。

人間は異なる思想の人間を恐れ、排斥しようとする。現在も世界中で起こる軍事独裁による粛清が、悪意のない市民を巻き込む。公道は退役軍人であるが、広東省出身の外省人。上官が反体制分子だったこともあり、台北ネイティブからも軍部からも疎まれ社会の底辺に追いやられている。

100%の善人も100%の悪人もいない本作の空気感は、どこか滑稽味があります。阿月と公道が共に過ごしたのはわずか3日間。その数日間が永遠の礎となる。華やかな観光要素こそなく、むしろ重苦しい題材ではあるが、これは『ローマの休日』の翻案なのではないでしょうか。自転車二人乗りで貧しい裏通りを疾走し、間抜けな悪党たちやお人好しの巡査と大捕り物を演じる。

阿月の長姉で台北に養子に行きナイトクラブ蝶彩のショーガールになった秀霞を演じる9m88R&Bミュージシャン。同時代の日本に置き換えたら吉永小百合がやりそうな役です。阿月たちを2度助ける高金鐘(リウ・グァンティン)は実在の義賊をモデルにしており、彼が登場するコメディパートもローマの休日感を補強しているように感じました。2026年の私的ベストムービー候補に挙げたい傑作です。

 

2026年5月8日金曜日

ビリー・アイリッシュ HIT ME HARD AND SOFT : THE TOUR (LIVE IN 3D)


開演18時間前、カナダのケベック市にある18,000人収容のアリーナCentre Vidéotron のステージセットの設営から映画は始まる。2024年9月から2025年11月に開催され150万人を動員したビリー・アイリッシュのワールドツアー "HIT ME HARD AND SOFT : THE TOUR" の劇場版映画化です。

360度客席に囲まれたステージ中央に設置された発光する巨大な立方体は『2001年宇宙の旅』を思わせる。シンセベースの重低音が会場を震動させ、自身のツアーグッズのバスケットシャツとベースボールキャップを身に着けたビリーの姿が立方体のLEDに透けて、"Chihiro" を歌い出すと客席のヴォルテージはマックスへ。レコーディングされたアンニュイなウィスパーはライブ仕様のストレートなシャウトに置き換えられている。

10代から20代前半の白人女子が中心の観客は、"when the party's over" でステージにしゃがみこんだビリーが一人コーラスのループを作る際に黙らせる以外、全曲シンガロング。もしくはスマホを掲げて動画を撮るか、泣くか、それら全タスクを同時にこなすか。

最初は気になった観客の歌声が、ギリシャ悲劇のコロスやゴスペルのコーラスにも似た聖性を帯びて聞こえてくるミラクル。「誰もがここでは安全」とビリーは言う。SNSで時折見かける「隣席の歌がうるさい。あんたの歌を聴きにきたわけじゃない」論争に対するひとつのアンサーを見た気がします。

インサートされるジェイムズ・キャメロン監督によるインタビューショットで「嫌なことがあると最後列の観客のことを考える」と答えるビリー。『ビリー・アイリッシュ 世界は少しぼやけている』(2021)のチック症に悩む自己肯定感の低い猫背の少女はそこにはもういない。

女声コーラスのエイヴァとジェインは背中に名前が刺繍されたラルフローレンの赤いポロシャツとチャコールグレーの膝丈プリーツスカート。4人の男性ミュージシャンもおそろいのネイビーのポロシャツ。ピックと指弾きを使い分け超重厚な低音部を支えるソロモン・スミスのベース。終盤2曲に登場しピアノとギターを弾く兄フィニアスの慈愛のまなざし。

なによりビリー本人がこれだけ短期間でビッグネームになったにも関わらず、少しも自分を見失っていないように見える。ハンディカムを掲げ、熱狂する観客と自撮しながら疾走する姿を見てそう感じました。

3D映像に関してはそこまででもないな、2Dでもよかったかも、と思って観ていたのですが、エンディングの紙吹雪が手に届きそうなくらい近くまで舞ってきたとき、会場にいる一体感を得られたので、やはり3Dで観てよかったです。

 

2026年5月5日火曜日

ラ・フォル・ジュルネ TOKYO 2026 LES FLEUVES ③

子供の日。すっきり晴れて東京国際フォーラムは大賑わい。クラシック音楽祭「ラ・フォル・ジュルネ TOKYO 2026 LES FLEUVES(大河)」最終日3日目は有料公演を3本鑑賞しました。

■公演番号:322〈川辺での沈思
ホールC(ヴルタヴァ)12:00~13:00
ショパン:夜想曲op.37-1
ショパン:子守歌 op.57

2023年2024年と同様に、まず演奏者本人によるプログラムの意図の解説あり。全14曲60分構成は、ショパンの3曲を中心に、前半はショパンが愛した1685年生まれのバロックの3巨匠、「主よ、人の望みの喜びよ」で短調から長調に眩しく転換して、ショパンに影響を受けた印象派の作品を並べています。それは小品集というよりひと続きの組曲。1500人の観衆が水を打ったように聞き耳を立てていました。

■公演番号:344〈セーヌ川
ホールG409(ガンジス)15:15~16:05

図らずもピアニスト母子を続けて聴くことに。こちらはフォーレとその弟子筋を中心としたアンソロジープログラムです。たまたま最前列センターやや下手のピアニストの両手がよく見える良席でした。近距離とドライな音場が相俟ってクリアに響きます。演奏技巧は確かなのですが、ピアノがめちゃ上手い同級生が放課後に音楽室でリクエストに応えて弾いてくれているような親しみやすさがあります。

ホールA(ロワール)18:30~19:15
小林愛実(Pf)

LFJ2026の仕上げは再びホールAでオーケストラを。この冬ピアノ小品をずっと聴いていたシベリウス(フィンランド)とイントロは誰でも知っているグリーグ(ノルウェイ)の北欧詰め合わせです。これもたまたま最前列で、ペダルを踏む音まで聞こえる。小林愛実さんのピアノがパワフルなこと。そして弱音が可憐。20年近く前に同じホールで確かチャイコフスキーを聴いた故ブリジット・エンゲラーの記憶が重なります。

今年も充実した3日間になりました。出演者、スタッフならびに会場ボランティアのみなさん、どうもありがとうございます。来年また会えますように。

 

2026年5月4日月曜日

ラ・フォル・ジュルネ TOKYO 2026 LES FLEUVES ②

みどりの日。新緑の東京国際フォーラムへ。クラシック音楽祭「ラ・フォル・ジュルネ TOKYO 2026 LES FLEUVES(大河)」2日目は有料公演2本を聴きました。

■公演番号:233
ホールD7(ポー)13:30~14:20

2009年パリ生まれのアリエル・ベックは17歳。技術に裏打ちされた理知的なアプローチと正確無比なタッチはシフの若い頃を思わせ、ロマン派よりバッハが似合う感じがします。フレッシュで明晰なイギリス組曲でした。ミックスルーツなのかな、きれいにカールした長い黒髪にラメの入ったダークグレーのタイトなワンピースは実写版リトル・マーメイドのリアル版(実写版のリアル版って…)。アンコールはメンデルスゾーン舟歌でした。お父上は詩人のフィリップ・ベック氏だそうです。

■公演番号:247
ホールG409(ガンジス)21:45~22:30

G409はホールというよりも会議室。演奏の始まりは音響が超ドライだったのに、徐々に残響を増したのはベテランカルテットの技術。アンコールで再度演奏されたヴァルタヴァは、チェロのピチカートで表現される水源の一滴から並々と流れる悠久の大河を眼前にするようでした。神経質な天才肌、お母さん、パーティガールの女子3人、チェロのギョームはポニーテール、髭、眼鏡、Uネックシャツ、素足にローファー、というフランス人イケオジ要素全部盛りです。

桐朋学園大学で20~21世紀音楽を研究している沼野雄司教授講演会『〈流れ〉から読む現代音楽の世界』を11:00~12:00にホールB5(黄河)で聴講しました。ジョン・ルーサー・アダムススティーヴ・ライヒジェルジ・リゲティなど。日中戦争時に抗日カンタータがさかんに作られたとか。沼野先生のユーモラスな語り口は学生さんたちにもきっと人気だと思います。

 

2026年5月3日日曜日

ラ・フォル・ジュルネ TOKYO 2026 LES FLEUVES ①

憲法記念の日。毎年ゴールデンウィークに東京国際フォーラムで開催されているクラシック音楽祭「ラ・フォル・ジュルネ TOKYO」。今年のテーマは「LES FLEUVES(大河)」、河川をモチーフにしたプログラムが組まれています。

3日間のフェスの初日は有料公演3本を鑑賞しました。

ホールA(ロワール)12:45~13:30
山下一史(指揮)

わが郷里千葉県で唯一のプロオケは1985年創立。僕は1986年に東京に転居したので1年しか重複しておらず、今回はじめて演奏を聴きました。ゆったりとしたテンポで始まった田園交響楽は、甘く優しく優雅な音色ですが、第四楽章の雷雨の場面はちゃんとどかどかしています。ソリストとしても活躍しているコンサートマスター神谷未穂さん、上品な響きのファゴット奏者柿沼麻美さんほか女性の活躍が目立つオケです。

■公演番号:144〈ステュクス~三途の川
ホールG409(ガンジス)15:30~16:15

展覧会の絵に川のイメージはなかったのですが、生死を分ける川ですね。ムソルグスキーが親友の鎮魂のために書いた曲です。1960年代生まれの僕たちにとって、EL&P冨田勲がこの曲のベンチマーク。生きているうちに原曲を生演奏で聴けてよかったです。五十嵐薫子さんのキレのある演奏。テュイルリーの庭のスタッカートがころころしています。アンコールのレスピーギの「甘美なワルツ」も素敵でした。

ホールC(ヴルタヴァ)18:00~18:45

去年も同じ組み合わせでシューマンを聴き、とてもよかったので楽しみにしていました。プラハ近郊の湖畔の別荘で書かれた楽曲は、第一、第三楽章はチェロ、第二楽章をヴィオラ、カルテットではバックアップにまわりがちな楽器が主題を演奏します。舞台上手から、伏し目がちなシャイボーイ、社交的な元気女子、お調子者のムードメーカー、冷静沈着なリーダー、後方から見守る顧問、みたいな絵面も面白かったです。

20年以上フェスをリードしてきた総合プロデューサーが第一線を退いて、少々雰囲気が変わりましたが、演奏のクオリティはしっかり保たれていると感じました。明日はバッハとスメタナです。


2026年4月29日水曜日

オールド・オーク

曇天。ヒューマントラストシネマ有楽町ケン・ローチ監督作品『オールド・オーク』を観ました。

2016年、英国北部ダラム近郊、炭鉱が閉鎖されて荒廃した海辺の町にシリアからの難民の乗せたバスが到着する。それを見た町の住人たちは「ここはまるでゴミ捨て場だ」と不快感を隠さない。旧英国領キプロスの不動産投資会社が空家を安く買い叩き、難民支援団体に転売している。

バスの窓から一眼レフを向けた若い女性ヤラ(エブラ・マリ)が降りてくると、ニューカッスルユナイテッドFCのレプリカシャツの男がヤラのカメラを奪い、手を滑らせてアスファルトに落ちたカメラは壊れてしまう。

寂れた町の最後に残ったパブ THE OLD OAK のボックス席では、中年の常連客たちが昼からビールを飲み、移民に対するヘイトを吐き出しており、店主TJバランタイン(デイブ・ターナー)は苦い顔はするものの口を挟まない。更に高齢の常連が「彼女がお前に何も迷惑をかけてないだろ」と窘める。

ヤラが壊れたカメラを持って THE OLD OAK を訪ね、弁償させたいので壊した男を教えてほしいと言う。TJは不景気になってから長く開けていない奥の広間にヤラを案内し、叔父の形見のカメラを3台見せるが、ヤラは受け取らない。2台売れば修理代になる、とTJはヤラのカメラを預かる。

シングルマザーと社会保障をテーマにした『わたしは、ダニエル・ブレイク』、宅配ドライバーと介護従事者の夫婦が主人公の『家族を想うとき』に続く本作は、昨今の欧州諸国の右傾化と排外主義が如何に市民生活を蝕み、分断しているのか、という点を浮き彫りにするのみならず、産業の空洞化、プアホワイト、子どもの貧困、ジェンダーギャップ、ブレクジット、古参と新規、など同時並行し10年後の現在も解決しておらず、むしろ苛烈さを増している社会課題を、その中で生きなくてはならない市井の人々の日常を通じて描くことで、2026年の日本においても我々は切実な自分事としてスクリーンに向き合わざるを得なくなる。

小学生の女の子に「大丈夫、いいことは長く続かない」と嘆息させてしまう社会に絶望するのではなく、「慈善ではなく連帯を(Solidarity, not charity)」「共に食べ連帯しよう(Eat together, stick together)」繰り返されるこれらのメッセージ、難民たちが感謝を込めて店に贈ったタペストリーに刺繍された「Soridarity, Strength, Resistance」の文字は、90歳を超えたケン・ローチ監督が次世代に託した祈りなのでしょう。

TJが飼っているジャーマンシェパードの子犬マラ(本名Lora)の愛くるしさはもうひとつの救い。マラ(Marra)は英国北部炭鉱地方の方言で「親友」「相棒」「仲間」を意味するそうです。

 

2026年4月26日日曜日

ノラバー日曜お昼の生うたコンサート&デザートミュージック

初夏の日差し。『ノラバー日曜お昼の生うたコンサート&デザートミュージックカワグチタケシ新詩集『fragments』刊行記念ライブにご来場のお客様、ライブ配信をご視聴くださった全宇宙のお茶の間の皆様、いつも素敵なおもてなしで迎えてくれるノラバー店主ノラオンナさん、看板インコ梨ちゃん3号、ありがとうございます。

春分を超え夏至にはまだ早い、一番ちょうどいい季節に新しい詩集の門出をみなさんに祝っていただきました。  

昨年秋に出版した『過去の歌姫たちの亡霊』は2021~2025年に書いた詩が収録された、2015年の『ultramarine』以来10年ぶりの詩集でした。その半年後に完成した『fragments』の10篇は2016~2025年に書いたものです。10人の女性シンガーをモチーフにして書いた「歌姫」とは異なり、タイトル通り複数の言葉の断片を並べたときに生まれる響きを(それは意味であったり、音であったり、色彩や温度であったりするのですが)掬いあげるような書き方をしています。


今回のライブは、過去10作の各詩集から冒頭の一篇を年代順に並べ、そのあとに新詩集の全篇を朗読するという構成を取りました。30年の変化と変らないコアを感じてもらえたのではないかと思います。生後6か月を迎えますます語彙の増えた梨ちゃん3号が元気に合いの手を入れてくれました。僕の気持ち的には2MCでしたが、3号はどう思っていたのかな。

春らしく甘く熟した苺をあしらった季節の野菜とフルーツのサラダノラバーさわやかポークカレーノラバープリンにも苺が乗ってノラブレンドコーヒー、というお昼のライブの定番メニューは何度でも食べ飽きないおいしさです。配信ライブのデザートミュージックでは、新刊の後半5篇を朗読しました。

1. ビザンティウムへ地下鉄で
3. 白木蓮
4. 路上にまつわる断章
5. 日々

みなさん『fragments』を手に取ってくださって、 自分の詩集の奥付にこんなにまとめてサインをしたのはいつぶりだろう。ライブのあとは、綺麗なネイルで3号を手なずける方、ノラバーのオリジナルキャップを試着して嬌声を上げる方、静かにワイングラスを傾ける方、思い思いに今日を楽しむ姿を眺めて幸福な気持ちになりました。

今日から始まったリリースツアーのファイナルは9月20日(日)。再びノラバーに帰ってきます。初秋の4連休の2日目の夜をいまから開けておいてくださいね。