2026年9月4日金曜日

猫たちと7000マイルの旅

小雨。ヒューマントラストシネマ有楽町マイ・ホン監督作品『猫たちと7000マイルの旅』を観ました。

排水溝に雨水を落とすパイプから顔を出す子猫。カタールの首都ドーハは雨のほとんど降らない砂漠の都市。街頭のスピーカーからコーランが響き、駱駝に乗ったターバンの男たちと超高層建築が同居する。夜の路上を徘徊するひどく瘦せこけた野良猫たちに、仕事を終えたパキスタン人の施工管理技士ウマイルがキャットフードと安全な水道水を配っている。

画面は急に明るくなり、星条旗を映す。客室乗務員のケイティは航空機操縦士の妻でティーンエイジャー2人の母親。ウィスコンシン州ミルウォーキーで猫カフェSIP & PURRを経営し、過去に国内外から1390匹の保護猫の譲渡を仲介している保護活動家でもある。航空会社のコールセンターに電話を掛け「ドーハからシカゴに猫を25匹搭乗させるカーゴの代金を支払いたい」と言うとオペレーターは絶句する。

25基のクレート(運搬用ペットキャリー)と共にハマド国際空港に降り立ったケイティがウマイルと協力して、4日間の滞在で25匹の野良猫を保護するために奔走する様子を追ったドキュメンタリー映画です。

世界有数の富裕国カタールの人口は300万人。その89%は外国人が占める。急速な経済発展を支えるために雇用され渡航して来た出稼ぎ労働者たちが、スーク(常設市場)のペットショップで子猫を買い帰国時に捨てる。人口とほぼ同じ300万匹の野良猫がいるという。

300万匹のうち25匹なので、比率にしたら僅かなものですが、救われる猫が一匹でも増えればという強い気持ちで動くケイティ。命に軽重はないのに「選ぶ」という行為が付随してしまう。現地の保護活動家たちを訪ね、保護されている多数の猫のうち連れ帰る数匹を選ぶ。スークに出掛け、無数の野良猫たちの中から数匹を選んでクレートに収納する。

そこには選ばれなかった者が存在する。保護する側にも観客である我々にも葛藤は生じると思います。ケイティは帰国後に里親を探すにあたり、引き取り手がつくような猫を選ばなくてはならない。救いは、その基準が容姿や描種や健常さだけではなく、フライトに耐える最低限の体力は必要だが、事故で四肢や視力を失った猫やFIV(猫エイズ)陽性の猫、栄養失調の猫など、路上で生き延びることが困難な猫たちが多く選ばれていることです。

印象に残ったのは、ドーハの保護活動家たちの国籍が、インド、ヨルダン、シンガポール、フィリピン、ほか多岐に亙ること。イスラムの戒律の関係なのか、カタール人は獣医師しか登場しません。25匹の予定が、スークでクレートを買い足して27匹と帰国、その後妊娠していた雌猫レディが4匹の赤ちゃんを産んで、結果的に31匹になりました。障害を持つ猫も含めその多くは、ミルウォーキーとその周辺に暮らす富裕な白人家庭に引き取られました。

 

2026年9月3日木曜日

とまり木にて13 〜鳥と港〜

小雨。吉祥寺MANDA-LA2で開催されたライブ『とまり木にて13 ~鳥と港~』に行きました。

『とまり木にて』は、2021年11月からノラオンナさんが同会場にて不定期開催しているツーマンライブ。普段はゲストを一人招いて、弾き語りの演奏を1曲ずつ交互に披露するという趣向ですが、今回は特別編。

ノラさんの現時点における最新盤『スサー』を共にレコーディングした二人のギタリスト、外園健彦さん古川麦さんとのトリオ「夏のスサー」。2012年結成、メンバーチェンジを経て現在は、ピアノ藤原マヒトさん、ドラムス柿澤龍介さん、ベース宮坂洋生さん、ボーカルノラさんの4人編成バンド「港ハイライト」。2組のユニットがいずれもノラオンナ楽曲を交互に演奏する(したがってノラさんは出ずっぱり)という構成です。

先攻は黒衣装の港ハイライトで「港ハイライトブルーズ」。宮坂洋生さんのウッドべースが加わったアコースティックカルテットはジャズテイスト。藤原マヒトさんは終始オブリガートを弾き、そのありようは楽器こそ違えキース・ムーンのごとし。柿澤龍介さんが正確なブラッシュワークと強力なキックで底支えする。

続いて白衣装の夏のスサーで「Bye-bye」。名盤『スサー』の1曲目です。古川麦さん外園健彦さん、2本のガットギターは、どちらがリードでどちらがリズムという役割ではなく、有機的なアンサンブルとして機能しており、港ハイライトが意識的に隙間を作るのに対して、夏のスサーは寄木細工のように美しく組み上げていく。

2組の演奏の土台となっているのがノラさんのがっしりとしたソングライティングであり、熟達した演奏に乗って自由に遊んでいるのがノラさんの歌です。

古川麦さんの弾き語りを初めて聴いたのは13年前のこと。ガットギターのフィンガーピッキングの清涼な音色、滑らかで豊かな歌声、誠実でアイデア溢れる演奏から滴るフレッシュネスがまったく色褪せていないことに驚かされます。

港ハイライトブルーズ」「無理を承知で言ってるの」「愛の劇場」「抱かれたい女」「バニラの香り」など、あえて世俗の道、大衆音楽(=ポピュラーミュージック)を選ぶ港ハイライト、「Bye-bye」「クリスマスプレゼント」「」「My bluebird」など、聖性を帯びた夏のスサーの楽曲と演奏を、客席という汽水域で交互に浴びて感情が揺さぶられる。

終盤になると両者は徐々に融合し、聖俗あわせ持つノラオンナミュージックに収斂していく。更に、アンコールで披露された「梨ちゃんソング」は、テクノアレンジのシングル盤とは180度異なる解釈で、6台の生楽器のオーガニックなグルーヴはTALKING HEADSの "Remain In Light" を思わせるオルタナティブな響きを持つものでした。

 

2026年8月30日日曜日

劇場版 魔法少女まどか☆マギカ〈ワルプルギスの廻天〉

夏日。ローソンユナイテッドシネマアーバンドックららぽーと豊洲宮本幸裕監督作品『劇場版 魔法少女まどか☆マギカ〈ワルプルギスの廻天〉』を観ました。

固定電話の呼び出しベルの音。受話器に串刺しにされた蜥蜴。制服の少女(青山吉能)が同級生にスクールバッグを奪われ橋の下に投げ捨てられると、夥しいカッターナイフが降ってバッグに突き刺さる。

「ないしょのないしょのだれにもないしょ」「あなたの骨をひとつくださいね」。ソウルジェムを持たない少女は呪いと引き換えにトカゲさん電話から力を得て、四足歩行する髑髏の姿をした魔獣を次々に殺戮し、その過程で都市は跡形もなく破壊される。

鹿目まどか悠木碧)は中学2年生、同級生美樹さやか喜多村英梨)と通学中。その後ろを歩く佐倉杏子野中藍)は、魔法少女ではない少女が魔獣を倒す昨今の問題と絡めて、魔法少女のさやかが魔法少女ではないまどかとつるむのはまずいのではないか、と3年生の巴マミ水橋かおり)に愚痴る。階段状の噴水に頭を下にしてびしょ濡れで仰向けに横たわる暁美ほむら斎藤千和)と同じ顔の上級生(坂本真綾)が、まどかに「あなたに会いたかった、マルグリート」と話しかけてきた。
 
2011年に東日本大震災による中断を挟んで放送された全12話を、2012年に劇場版前後篇として再構成した『魔法少女まどか☆マギカ』は、運命的な渦に巻き込まれ望まずに魔法少女になった主人公まどかを救うために、ほむらが「円環の理」に閉じ込める話。翌年劇場公開された『魔法少女まどか☆マギカ [新編] 叛逆の物語』では、ほむらによってまどかは「円環の理」の概念と化し、魔女との戦闘で命を落とした魔法少女たちは悪魔になったほむらによって再構成された世界で再生する。

その後を描いた本作において、テレビシリーズでは凄惨な戦闘との激しいギャップを形成していた中学生としての日常、 寝坊した主人公がトーストを咥えて走るような学校生活や家庭生活はほとんど描かれません。劇団イヌカレー(泥犬)が手掛ける魔女空間の造形は更に異形性を増し、戦闘シーンの映像の迫力はすさまじい。 テーマパークの傾いた塔、傾いたドアはむやみに不安を煽り、その空間で魔法少女たちは前作のように技名を華麗にコールすることもなく、ひたすら黙々と戦う。

ところが、物語の抽象度を極限まで追求するあまり、魔法少女たちがいったい誰と何と戦っているのかがわからない、という現象が起こってしまう。すくなくとも僕にはわかりませんでした。その感情を肯定するか否定するかで本作の評価が変わってくると思います。 天真爛漫な百江なぎさ阿澄佳奈)が美樹さやかに問いかける「誰のために何がしたいのですか?」。現実世界において、殊更思春期において、我々は誰のために何と戦っているのかを見失い、葛藤しながらも戦いから逃がれることができない。それがリアルな肌感覚として迫ってくる作品ではあります。

造形的な面白さ、アクション、音響、梶浦由記の劇伴は、文句なしに最高なのですが、同じように最高な例えばスパイダーマンと比較して、ひりひりするリアリティを持ちながら、同時にカタルシスの絶望的なまでの欠如を感じるのは、観客である我々の現実世界が既に円環の理に幽閉されてしまっている、ということなのかもしれません。

 

2026年8月29日土曜日

mue ワンマンライブ

小雨。吉祥寺MANDA-LA2で開催されたmueさんワンマンライブに行きました。

開演時間の13時にmueさん(Vo、G)、タカスギケイさん(G)、市村浩さん(B)の三人がステージで着席し「新しく始まる生活」をリフレインする「君は大丈夫」の演奏でライブが始まりました。今年の5月から月例となったワンマンライブ。今回mueさんはいつものガットギターをGibson ES-335に持ち替えて、5弦ベースとヘッドレスギターという、ドラムレスのエレクトリックトリオです。

"Like Someone In Love"と"Just Friends"、ジャズスタンダードの2曲ではギターを置いて歌に専念、プレイヤビリティの高い二人の聞かせどころを心得たベースソロ、ギターソロにもたっぷり尺を取る。

2曲のオリジナルソング「まだこの世にはないものを作るゲームをしよう」「イシキムイシキ」に続き「即興やりましょうか」と突然リクエストし2コードをループさせるmueさんにアンビエントな音像で応える。表面的な音は穏やかですが、三人の音楽的瞬発力を強く感じました。

いつでも苦しめられるのはいちばん好きなもの」。好きだからこそ高みを目指す。好きだからこそ振り回される。好きなものに対する自身の真摯さに不足を感じる。そういう苦しさは、人間関係であれ、恋愛であれ、仕事であれ、誰もが感じるものですが、実は喜びと表裏一体で、mueさんにとっては音楽がそういう存在なのだろうな、と思いました。

小笠原の南洋踊り」のカバーをひさしぶりに聴けたのもうれしかった。実に不思議な歌で、ハワイアン風な旋律に古い南洋語の意味のわからない響きが美しいのですが、日本語の歌詞も「わたしの心はあなたのために大変痩せた死ぬかもしれません」みたいに面白いフレーズの連発で、mueさんの柔らかい声であっけらかんと歌うのが最高なのです。

この日が故マイケル・ジャクソンの誕生日ということで、(いつもの)見切り発車で歌った2曲もブラジリアンスタンダードの "One Note Samba" もよかった。

オープンチューニングを使用せず、ピアノも弾かず、カバー多め、スロー~ミドルテンポで進むライブは、肩の力が抜けていて、「がんばらない」モードに入れている感じがしました。次回は同じくMANDA-LA2で9/20(日)昼公演、今回のタカスギケイさん、市村浩さんに加え4月11日の周年ワンマンに出演した北山ゆう子さん(Dr)を迎えたカルテットとのこと、見逃せないです。

 

2026年8月23日日曜日

恐怖分子 デジタルリマスター

処暑。Bunkamuraル・シネマ 渋谷宮下エドワード・ヤン(楊德昌)監督作品『恐怖分子 デジタルリマスター』を観ました。

明け方の薄青い街をパトカーが走っている。「眩しかった? 眠れない?」。シャオウェン(ホアン・チアチン)が『周郁芬自選集』を読んでいるベッドの傍らの壁には、隣で眠るシャオチャン(マー・シャオチュン)が撮影し大きく引き伸ばされたシャオウェンのポートレートが貼ってある。ベランダの下で銃声とサイレンが響き、白いシャツの男が路上にうつ伏せに倒れている。

賭博場のガサ入れだった。シャオチャンは一眼レフを持って通りに降り、警官に制止されながらも一連の逮捕劇をカメラに収める。2階の窓から飛び降り、足を挫いたハーフの美少女シューアン(ワン・アン)が横断歩道を渡れず倒れるのを撮影し、彼女に強烈に惹かれた。

「それは春の最初の一日だった」。小説家のイーフェン(コラ・ミャオ)は執筆に行き詰っていた。夫のリーチュン(リー・リーチュン)は野心的な勤務医。失踪した妻の捜索を幼馴染のクー警部補(クー・パオミン)に依頼するが、イーフェンは元彼シェン(チン・スーチェ)と浮気していた。

恐怖分子』は、エドワード・ヤン監督の『海辺の一日』『台北ストーリー』に続く長編第三作、1986年に公開されました。レトロモダンで幾何学的な病院やオフィスと、湿り気のある猥雑な路地裏が、計算し尽くされた構築美とカメラワークで描かれています。ガラスや鏡を利用した光の美しさや風の描写はヤン監督の得意とするところで、大病院の西日で逆光のカンファレンスルームやリマスター版のポスター予告編にフィーチャーされているシューアンの壁面コラージュが風に揺れるシーンなどはうっとり見とれてしまうほど。

同じ台北でばらばらに存在していた3組の男女が、一本のイタズラ電話から絡まり合って、カタストロフに至るプロットの構成も天才的。二通りの結末が順番に提示されますが、観客が迷うことはないと思います。同監督作品中随一の陰鬱さでありながら、映画にとって美とは何か、と強く問いかけ、深く記憶に刻まれる一本です。

医長の座を後輩に奪われ失意のリーフェンが彷徨う台北の街角の背景に深作欣二監督、薬師丸ひろ子主演の角川映画『新・里見八犬伝』(1983)の巨大な看板画が描かれています。


2026年8月21日金曜日

星の時 4K

夕立ち。新宿武蔵野館スザーナ・アマラウ監督作品『星の時 4K』を観ました。

ラジオの時報。キジトラ猫が木製の床を歩く姿にタイピング音が重なる。デスクには一輪のハイビスカス。「私はタイピスト。処女でコーラが好き」。19歳のマカベーア(マルセーリャ・カターショ)は、唯一の身寄りだった叔母を亡くし、ブラジル北東部の貧しい村からサンパウロ(原作小説ではリオデジャネイロ)に出て、部品メーカーの倉庫で職を得た。

タイピングは遅く、ミスが多い。そのうえ用紙はホットドッグの油染みで汚れ、せめて手を洗わせろ、と指導役のハイムンド(ウンベルト・マニャーニ)を上司のペレイラ(デノイ・デ・オリベイラ)は叱責する。

明け方目を覚まし、ベッドの下から洗面器を出して小用を足し、拭かずにまた眠る。ラジオの時報。顔もスタイルも人並み以下、服装も髪型も変でなんか匂う、と言われながらも、女子寮の4人のルームメイトはマカベーアを優しく受け入れる。

休日にひとりで動物園に行くために地下鉄に乗ろうとしたマカベーアに駅員が近寄って来るが、停止線をはみ出て危険なことを注意するためだった。ホットドッグをバースタンドで食べているときにカウンターの先で熱い視線を送っているように感じた紳士は白杖を持った視覚障碍者。洟をブラウスの襟で拭くマカベーア。

公演のベンチで証明写真を撮影していた青年(ジョゼ・デュモン)に声を掛けられ、同じ北東部出身のふたりは休日に出歩くようになる。何度目かのデートで尋ねるとオリンピコ・デ・ジェズス・モレイラ・シャヴェスと名乗った。

ブラジルの小説家クラリッセ・リスペクトル(1920-1977)はウクライナ生まれのユダヤ人です。彼女が逝去直前に刊行した『星の時』を1985年に映画化したスザーナ・アマラウはこのとき53歳。9人の子育てを終えてからNYで映画製作を学び、本作が初監督作品とのこと。

不思議な感触を持つ映画です。コメディとトラジディの狭間を往還するオフビートなトーンは、アキ・カウリスマキ監督やオタール・イオセリアーニ監督に近いかもしません。エモーションに踏み込む手前でとどまる感覚や主要登場人物のぎこちない動きは濱口竜介監督にも通じる。

天涯孤独で特性的にグレーゾーン、故に低賃金、何か質問されても上手く答えられず、すぐに謝ってしまうマカベーアは、スペックや境遇は過酷で不幸なのに悲壮感はなく、かと言ってポジティブなのとも違う。美男美女はスクリーンに現れないが、周囲の女性たちがみな優しい。店子が出かけるときは「バイアコンディオス(神のご加護を)」と声掛けする大家。直属上司のハイムンド氏も仕事が出来ないマカベーアを庇って優しい。会社の先輩で本作のお色気担当グロリア(タマラ・タシュマン)は、占いの結果マカベーアを裏切る行動を取ってしまうが、それでも優しい。

随所に流れる特徴的なラジオZTW465は、実在の24時間時報専門局Rádio Relógioをモデルにしています。1分毎の時報の合間に、蝿は昆虫で最も体重が軽く28日で地球一周できる速さで飛ぶ、みたいなトリビアが挟まり、本作に客観的でドライな空気感を付与しています。

プロレタリアート文学の系譜にありながら、同時に夢幻的で、掴みどころがない。それがこの映画の魅力になっていると感じました。

 

2026年8月16日日曜日

ハワの手習い

夏日。ヒューマントラストシネマ有楽町ナジーバ・ヌーリ監督作品『ハワの手習い』を観ました。

2021年秋、シャルル・ド・ゴール空港に着陸する機窓の田園風景から映画は始まる。本作の監督ナジーバ・ヌーリがアフガニスタンからフランスに亡命した。

時は遡り、2019年アフガニスタンの首都カーブル。ヌーリ監督の母親ハワが洗濯したペルシャ織のラグを手で絞り、パンをこねる。ハワが13歳のときに結婚した(させられた)30歳年上の夫は認知症になり、ハワが介護している。郊外の小綺麗な一戸建に家具は少なく、床に座って生活するため、居住空間が大きく感じられる。

男4女2の子育てを終えたハワは、伝統工芸のハザーラ刺繍と裁縫の腕を活かし、商売を始めようと考え、バーミヤンのクラフトバザールやポレソフタの市場に作品を卸すことを始める。親に教育を受けさせてもらえなかったハワは、カーブルの書店で小学生向けの教科書を買い求め、読み書きの勉強を始め、美容院で白髪を染めた。

50代で自分の人生を自ら切り開く決意をした母親の姿を捉えるカメラは希望の輝きに満ちている。離婚した娘の元夫の暴力に耐え兼ね家出した孫娘ザハラーを匿い、新たに購入したホワイトボードで文字を教わる。学びの日々は2021年8月末の米軍撤退とタリバンの政権復帰により強制終了させられます。

女性ジャーナリストであるナジーバ監督は生命の危険に晒されフランスに亡命。それが冒頭シーン。文字を覚えたハワと手紙のやりとりをする。カメラはナジーバの兄アリーに引き継がれるが、公道で母親を撮影しているところをタリバンに見咎められて殴られ、カメラはアスファルトに叩きつけられる。

2019~2024年にアフガニスタンで撮影されたドキュメンタリーフィルムは、前半と後半でまったく異なる様相を示します。女性の就業を禁じ、女子学校を閉鎖したタリバンの非人道性とそれを妨げられない国際社会に上映中は憤りを禁じ得えませんでした。

ただ冷静になると、タリバンの支持層というものがアフガニスタン国内には存在するのだという考えに至りました。貧困で充分な教育を受ける機会に恵まれず、伝統的家族観/家父長制を信奉し、女性は家庭にいるのが幸福、という思想を持つ人々が、タリバンの示す秩序こそ国家の安定につながると考えることは想像できます(共感はできません)。

もうひとつ、主な被写体であるヌーリ家は、アフガニスタン国内の少数民族であるハザーラ人で、ダリー語を話し、イスラム教シーア派を信仰しています。タリバン含む多数派のパシュトゥーン人はスンニ派、顔立ちも言語も異なり、ハザーラ人を清掃業や屠畜業に従事させ、差別してきた歴史がある。そのこともこの映画を通じて知りました。