1934年11月、NYハーレム。アポロシアターのアマチュアナイトで17歳のエラ・フィッツジェラルドが歌うのをダンサーのノーマ・ミラーは聴いた。おどおどとマイクの前に立った少女の歌声はシアターの満員の観客を魅了する。
1917年4月25日に合衆国バージニア州ニューポート・ニューズで生まれたエラは、グレート・マイグレーション(黒人大移動)によりNY市に隣接するヨンカースに転居するが、14歳で母親が亡くなり孤児になる。ホームレスとなり、15歳で女子感化院に収容されるが、1年で脱走。辿り着いた先がハーレムだった。
プロとしてのキャリアはChick Webb And His Orchestraで始まった。バンドマスターのチックは脊椎カリエスを患う名ドラマー。16人の男たちの中に十代の少女を放り込むことに最初は難色を示したが、その歌声の魅力に抗うことができなかった。5年間の巡業生活でエラの名声は高まったが、1939年にチックは34歳で亡くなる。エラは葬儀で "My Buddy" を歌い、16名のバンドメンバーをそのまま引き継ぎElla Fitzgerald and Her Famous Orchestraと名称を変えた。その頃にはエラは The First Lady of Swing Jazz と呼ばれるようになる。
1944年、ジャズのメインストリームはダンスミュージックのスウィングからテンポが速くアドリブ主体のビバップに移行した。この時代にエラは、サックスやトランペットのようにアドリブでスキャットした。ディジー・ガレスピーやオスカー・ピーターソンと対等に渡り合える歌手は少なかった。
僕がビバップ期で愛聴する女性ボーカルは、エラ・フィッツジェラルドとサラ・ヴォーンで、ふたりともアドリブがすごいのですが、陽キャのエラ、陰キャのサラと勝手に位置付けています。映画を観てもやはりエラの人間力がすごくて、いつも笑顔でポジティブ。ライブで歌詞が飛んだら「歌詞が飛んだ」と歌い、それがあまりに自然で皆感心して聴き入ってしまう。ジャズミュージシャンお約束の酒と薬とは一定の距離を置いており、チック・ウェブのツアーバスで楽団員たちが大麻を吸う中、ひとり最後部座席で頭からコートを被っていた、というエピソードも紹介されます。
その一方で、女子感化院の評価表には「エラは手がつけられない」と書かれる悪童な面もあって逆に安心します。プロデューサーのノーマン・グランツがエラのGreat American Song Book Series を制作するためにVerve Recordを設立したとは知りませんでした。
コメンテーターも多彩です。ポップ寄りからパティ・オースティンやジェイミー・カラム、クラシック界からアンドレ・プレヴィンとイツァーク・パールマン。ベーシストのレイ・ブラウンと結婚して生まれたレイモンド・ブラウンJr.が、母親に叱られると自室でThe Who の "My Generation" を大音量で聴いていたというのが最高です。







