七森(細田佳央太)は立命館大学の一回生。高校生のときに雨上がりの水たまりで拾い浴槽で洗った白いテディベアを一人暮らしの京都の部屋に連れてきた。
「僕チーズおかきばっかり食べてた」「チーズおかき最高」「わかる」。入学式当日のガイダンスで同じグループに割り当てられた麦戸美海子(駒井蓮)とぬいぐるみサークル、通称ぬいサーを訪ねる。大小さまざまなぬいぐるみたちがところせましと並べられた部室に最初は戸惑う七森と麦戸。ぬいサーはぬいぐるみ作りではなく、ぬいぐるみに話しかける学生が集う場所だった。
先輩の光咲(真魚)が説明してくれたルールはふたつ。1. 他の人がぬいぐるみに話していることを聞かない(イヤホンをつける)。2. ぬいぐるみは大切に。
「人が無差別に殺される。どうして人は殺し合わなければならないの?」と薄暗い部室で涙ながらにぬいぐるみに問いかける鱈山(細川岳)。苦しさを誰かに吐き出したいが、吐き出した相手を苦しめたくない。映画で描かれるHSP傾向の大学生たちに似た思考を持つ愛すべき友人が僕にもいます。
「傷ついていく七森や麦戸を優しさから解放するために私はぬいぐるみとしゃべらない」。ぬいサーに所属し主人公と恋愛関係にありながら、多数派のジェンダー観に疑問を持ちつつ、陽キャ勝ち組イベントサークルでも存在を認められる白城さん(新谷ゆづみ)のタフネスとバランス感覚。
「嫌なこと言う奴は嫌な奴のままであってくれ」。不用意に傷つけたことを謝る旧友の手をふりほどく七森。ジョンのサンが手がけたアブストラクトなトイミュージックともいうべき劇伴も効果的。暖かな蜂蜜色の画面に優しさと優しさの持つ脆さと残酷さを描き、成長至上主義に対するアンチテーゼを声高に主張するのではなく柔らかく提示した金子監督の気概と手腕を感じました。
なによりも映画を通じて考えさせられたのが、言葉を声にして出すことの意味です。生のままでは重層的で散漫で時には自身の内で対立する感情、思念、思考。声に乗せることで、夥しい無数の点が一本の線になる。生身の人間に話すときのように望まぬ合いの手も入らない。それがぬいぐるみに話しかける一番の効用ではないでしょうか。
一方で、単線化の過程において失われるものももちろんあって、それを掬い上げるのは詩の重要な役割のひとつだと思います。
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