委細昌嗣さん(サウンド)、究極Q太郎さん(朗読)、タケダヒロユキさん(アフリカン・パーカッション)、山田有浩さん(身体)の4人による約70分のセッションを目の前にして、思考とアクションの関係性を考えました。
ブラック・ミュージックの一般的イメージとして、考えるよりも先に身体が動くというようなことがあると思うのですが、声を出すのも、太鼓を叩くのも、踊るのも脳の指令によって随意筋が動くから。まったくの無意識ということはなく、伝承や練習によって得られた技巧を限りなく反復することで無意識の領域に近づけようとする。その過程で生まれるグルーヴであり、トランスであり、革新性であり、大衆性であるのだと思います。
上述のように当夜のパフォーマンスにおいて観客である僕は、感じるよりも考えることのほうが先行していた。それはQさんの朗読にいつも感じるインテリジェンスの影響かもしれません。
冒頭にダンス・パフォーマンスと紹介しましたが、主催の山田有浩さんは本公演をそのようには呼んでいません。主に音声により空気の振動を作り出す3人の共演者と呼応しながら、汗をかき伸縮し跳躍し時に蹲る生身の動きの存在感が強く感じられたからです。空間を上方に伸長する意思を見せた前半よりも、背中を床に叩きつけるように落としたあと重心を下げ、じっと座り込む、ただ普通に数歩進む、という動きに、ブラック・ミュージックをより強く感じました。
山田さんがSNSで紹介していた各出演者がレコメンドするブラック・ミュージック・コンテンツを真似ると、僕が考える「分裂する」ブラック・ミュージックは、ホイットニー・ヒューストン『そよ風の贈りもの』、マイケル・ジャクソン『スリラー』、アニタ・ベイカー『ラプチャー』の3枚、いずれも1980年代に世界的に大ヒットしたアルバムです。白人マーケットに受け入れられて過去の搾取を奪還し黒人の社会的経済的地位向上に貢献した半面、迎合だとブラック・コミュニティから激しく叩かれた。その分裂した構造は現在のヒットチャートまで続くものです。
もうひとつ。ブラック・ミュージックがあるなら、ホワイト・ミュージックはどうなのか、ということ。1978年に発表した1stアルバムを "White Music"(邦題:気楽に行こうぜ)と名付けたXTCのアンディ・パートリッジの批評性とアイロニーを思わずにはいられませんでした。
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