2019年1月4日金曜日

バスキア、10代最後のとき

冬晴れ。東京メトロ日比谷線の乗客たちが心なしかすこし疲れた表情に見えます。恵比寿ガーデンシネマサラ・ドライバー監督作品『バスキア、10代最後のとき』を鑑賞しました。

1978年、ニューヨーク・ロワーイーストサイド。NY市、NY州共に財政破綻し、富裕なWASP層が去ったマンハッタンは荒廃していた。空室だらけでゴミが散乱した褐色砂岩のビル群に貧しい移民が流入し、ドラッグと暴力がストリートに蔓延した。

シド&ナンシーパティ・スミスラモーンズグランドマスター・フラッシュアフリカ・バンバータ。パンクロックとヒップホップが同時多発的に起こる。

「そんなこんながどんどん増えて/そのうちみんながブルーズを歌い出すんだ/そうやってまるで絶望的な環境から素晴らしい音楽が生まれるようにそして/素晴らしい音楽ががっちりとネットワークを作って何かを伝承していくように/犠牲になることを頑なに拒絶するための道具として/あのブリクストンの反抗的なレゲエ・ビートのように強烈な言葉だけを頼りに」(Rumbling Under The Rain)

トーキョーポエトリーシーンの伝説的詩人故カオリンタウミが1997年に書いたこの詩句を地で行くような当時のNYで、まだ何者でもなかった18歳のジャン=ミシェル・バスキア(1960-1988)がコンテンポラリーアート界のアイコンになるまで、同時代人たちのインタビューによって構成し検証したドキュメンタリーフィルムです。

グラフィティチーム "SAMO" をバスキアと組んでいたアル・ディアス、ヒップホップカルチャーの先駆的映画『ワイルド・スタイル』に出演したファブ・ファイブ・フレディリー・キュノネス(レイモンド・ゾロ)。バスキア、ヘリングと並び称されたケニー・シャーフ。彼らは現在の自身の作品を背にインタビューを受けているが、いずれも技術があり、アブストラクトなファインアート寄りの作風に変貌している。生きていれば58歳のバスキアが当時のまま粗野な新鮮さを保っているのかは知る由もないが、夭折によりその勢いが真空パックされ価値を高めたことも事実なのだと思う。

そしてバスキアの元カノたち。ミュージシャン、画家、映像作家、研究者。クラブ57マッドクラブ。当時を語る彼ら、彼女らの姿にNYという街自体の青春時代を共有したんだなあ、という感慨が湧きます。そして服飾デザイナーのパトリシア・フィールドを除いて、登場する全員(の現在の姿)が誰一人としてファッショナブルではない。

バスキアが当初、画家(グラフィティ・ペインター)としてよりも詩人(グラフィティ・ポエット)として評価されていたこと(その流れで、ニューヨリカン・ポエトリーの父と言われるホルヘ・ブランドンのスポークン・ワード・パフォーマンスが数秒ですが写ります)、ヒップホップよりもテスト・デプトノイバウテンなどノイズインダストリアル音楽が好きで、その後チャーリー・パーカーディジー・ガレスピーらのビバップジャズに傾倒したことなど、この映画を通して知りました。

バスキアの作品は2019年現在の目で見てもとてつもなく格好良い。でもその魅力を論理的に伝えることは大変な困難を伴う。「鑑賞者が作品を前にして、なぜ自分がその作品の前に立っているのかを自問することこそがアートだ」というリー・キュノネスの言葉が本質を突いています。

 

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