2026年4月12日日曜日

カルテットという名の青春

シネスイッチ銀座浅野直広監督作品『カルテットという名の青春』を観ました。

2008年1月の小樽。バルトークを演奏するジュピター・ストリング・カルテット。1stヴァイオリン植村太郎、2ndヴァイオリン佐橘マドカ、ヴィオラ原麻理子の3人は当時23歳、チェロ宮田大21歳。いずれも国内外のコンクールでソリストとして華々しい成果を上げている。

ロックファンでクラシック音楽には明るくないと自認する浅野監督が、どれぐらい練習するのかと尋ねると、リーダーの太郎が「1曲100時間以上」と答える。譜面に基づき、テンポやアクセントなど細部の解釈を4人で擦り合わせるのに多くの時間を費やすという。カルテットにおける自分をおでんのタネに例えるという質問に、太郎は大根、マドカは昆布、麻理子は玉子、大は出汁だと言う。

東京のスタジオで口論の末に完成した録音を、優勝か最低でも入賞が期待されていた器楽の最高峰ミュンヘン国際コンクールに送るが、テープ審査で落ちてしまい「世界が僕たちの良さに気づいていないだけ」と強がる。国内の演奏会は毎回盛況だが、先行して単身ジュネーブ音楽院に留学した麻理子は3人との演奏に窮屈さを感じ脱退したいと告げる。

将来を嘱望された若手弦楽四重奏団を4年に亙り取材したTVドキュメンタリーを劇場版に再編集したフィルムは、タイトル通り、青春の輝きと苦さがスクリーンから溢れています。

ヴォルフイタリアン・セレナーデシューマン弦楽四重奏曲第3番。「カルテットを完璧に弾くということは、弦楽器奏者として最高と言われている」。その後、太郎はハノーファー、マドカはジュネーブ、大はクロンベルクに留学してソリストのディプロマで学び、カルテットとしては、東京では今井信子氏、ジュネーブではガボール・タカーチ=ナジ氏に師事する。

指揮者のヴィジョンの実現に向かって一丸となるオーケストラや作曲家の亡霊と対話し自己の表現をひたすら研ぎ澄ますピアニストと異なり、カルテットが音楽を磨き上げる過程は民主主義そのもの。言葉と音で対話を重ね、微調整を繰り返す。個を尊重しつつ全体に奉仕することは、相反する概念を同時に成立させ、調和させるというデモクラシーの持つ美しさと困難さを体現しているように思えます。先生は「自由に」というが、幼少期から音楽に全集中してきたスーパーエリートの彼らも、自由で且つ調和のとれた演奏とは、と思い悩み行き詰ってしまう。

2010年10月ジュネーブ、活動休止を決めた最後のレッスンで、ベートーヴェン弦楽四重奏曲第12番第2楽章をタカーチ師が弾くのを聴いて「音楽は(楽譜の段階で)既に美しいんですね。美しく弾こうしなくていいんだ」と落涙する姿が深く心に刻まれます。

最初の取材から3年半後、同じ質問に4人は、がんも、私、玉子、つみれ、と答えました。

 

2026年4月11日土曜日

Story of the 411 Road

4月の夏日。吉祥寺MANDA-LA2で開催されたmue25周年ワンマンライブ『Story of the 411 Road』に行きました。

「今日一日をとても楽しみたい♪」というイントロダクションに導かれて1曲目は「around the town」。mueさんがデビューした日である4月11日に毎年MANDA-LA2開催されるバンドセットのワンマンにはじめて行ったのは2013年。それから長い年月が経ちましたが、mueさんの音楽の持つフレッシュネスはすこしも損なわれていない。

2曲目の「話をつづけよう」を歌い終えると照明の熱で額に汗が浮かび「1枚脱いできていいですか」と楽屋に下がる。その間無音のステージに戻り「25年やってる人の状態や態度じゃない」と笑うmueさんが自由過ぎて、客席も啞然からの爆笑。

毎年変わるバンドメンバー、今年は北山ゆう子さん(Dr)とTaroさん(B)。ポップミュージックとしては最小単位で、各々の領域で貢献しつつ、音作り、ライブ作りの細部にともすれば拘泥し過ぎる傾向のあるmueさんの音楽を柔軟に解放する、4.11史上一の構築的で民主的なアンサンブルだと思いました。

futtong×mueのセルフカバー「僕らのかけら」のブライトな声の響き、「trigger」のカントリーブルースのリズム、The Beatles の"Lucy In The Sky With Diamonds" の悠久を感じさせるウッドベースのボウイングや随所で聴かせるベースソロ。名手北山ゆう子さんのドラムは音色が清潔で正確、mueさんとのアイコンタクトで決めてほしい適切なタイミングで適切なリズムを綺麗に気持ち良く決めてくれる。サイケデリックな浮遊感のある「大きな流れをつくる」の終盤のフリーな連打は実質ドラムソロでした。

この日の入場料は当日4.110円。これは4月11日にちなむものとすぐに理解できたのですが、予約3,350円の謎が解けたのは最終盤。再度楽屋に下がったmueさんが真赤なGibson ES-335を連れて登場しました。以前から赤いセミアコを買うか迷っており、諦めるつもりで試奏したらこれだ!と思ってしまったと、新曲「さあ一旦社会生活を置いて本当の自分で生きる」を新しいギターで歌う。タイトルに反して渋谷系。白いワンピースに赤が映えます。

2時間半のステージで演奏されたのは、2曲のアンコールを含め充実の全24曲。アンコールの「東京の夜」とカバー2曲を除くとまだレコーディングされていない楽曲ばかりです。昨年はYouTubeの毎日更新にチャレンジしていましたが、作り込まれた公式録音もそろそろ聴きたいな、と思いました。

 

2026年4月10日金曜日

1975年のケルン・コンサート

春の雨。ヒューマントラストシネマ有楽町イド・フルーク監督作品『1975年のケルン・コンサート』を観ました。

ヴェラ・ブランデススザンネ・ウォルフ)は50歳の誕生日をホームパーティで祝われていた。スピーチを促されたが、それを制止して父親(ウルリッヒ・トゥクール)が「お前は私の人生の最大の失敗」と言う。

1973年のドイツ連邦共和国(旧西ドイツ)第四の都市ケルン。16歳の高校生ヴェラ(マーラ・エムデ)はアイスクリームパーラーCampiで開催された英国人サックス奏者ロニー・スコットダニエル・ベッツ)のライブ会場にいた。終演後、ヴェラは馴染みの店員からアイスを奪いロニーに手渡す。積極的なヴェラにロニーは、自身の西独ツアーを組んでくれないか、と言う。ヴェラは父の歯科医院で真夜中に英国人のふりをして西独のライブ会場に手あたり次第電話をかけた。

1974年、西ベルリンのジャズフェスティバルで29歳のキース・ジャレットのソロピアノを聴き、衝撃を受けたヴェラはキースをケルンに呼ぶために奔走する。

1975年1月24日、ローザンヌで演奏を終えて楽屋で腰痛のコルセットを外し、ECMレコードマンフレート・アイヒャーアレクサンダー・シェアー)の運転する小型車で8時間かけてケルンに着いたが、オペラハウスのステージには指定していたべーゼンドルファー・グランド・インペリアルはなく、ペダルが壊れ調律されていないリハーサル用のピアノが置かれていた。演奏を拒否するキース。キャパ1,300人のオペラハウスに1万マルク(当時のレートで約100万円)の会場費は既に払ってしまった。23時の開演まであと7時間、19時から21時はベルクのオペラ『ルル』の上演でステージが使えない。

「これはキース・ジャレットの映画でも『ケルン・コンサート』の映画でもない。『足場』についての映画だ」。ガールエンパワーメントムービーの惹句の通り、世紀の名盤誕生の過程における高校生ヴェラの活躍と家族との確執と和解、仲間たちとの連帯をスピーディでタイトな編集で小気味よく魅せる青春映画。いつもベレー帽を被っているアナーキストの同級生イザ(シリン・リリー・アイサ)がとてもいいです。

とはいえ、権利の関係なのかキースのソロ演奏シーンがベルリンのコンサートホールだけなのはちょっと物足りない。『ケルン・コンサート』のあの冒頭の4単音と6′30″あたりの踵落としドーンはあってもよかったのではないでしょうか。オペラハウスの幕が上がるとビージーズの "To Love Somebody" のニナ・シモンcover(名演!)がかかります。キースの実際の演奏はYouTubeでもサブスクでも聴けるので、そこは映画館を後にした観客に委ねられているということなのかもしれません。

米国人音楽ライターのマイケル・ワッツマイケル・チェルナス)がいい味を出している。スクリーンからしばしば客席に語り掛けるのは『ストリート・キングダム 自分の音を鳴らせ。』でも使用されていた演出(いわゆる第四の壁)。ジャズの歴史を超ざっくり解説してくれるので、ジャズ初心者でも大丈夫。レコーディングが演奏ミスで中断すると、クランプスはスタッフを罵倒し、ディランは笑い、スタン・ゲッツは平謝り、フリートウッド・マックは口論する、というくだりも面白かったです。