2024年7月25日木曜日

ザ・ビートルズの軌跡 リヴァプールから世界へ

猛暑日。UPLINK吉祥寺にてボブ・カラザーズ監督作品『ザ・ビートルズの軌跡 リヴァプールから世界へ』を観ました。

白黒テレビ画面でエド・サリバンに紹介されバンドは演奏を始める。熱狂する客席のティーンエイジャーたち。

ザ・ビートルズの初代マネジャー、アラン・ウィリアムズが1961年を回想する。「当時はボビーの時代だった」。ボビー・ヴィントンボビー・ライデルボビー・ダーリンボビー・ヴィ―エルヴィスは兵役、チャック・ベリーは刑務所、ジェリー・リー・ルイスは児童婚で叩かれ、バディ・ホリーは飛行機事故死。ロックンロールが下火になり、甘いポップスを歌うボビーたちが台頭していた。

英国リヴァプールのキャヴァーンクラブから西ドイツのハンブルグへ渡った下積み時代について多く時間が割かれている。二代目マネジャー、ブライアン・エプスタインがもたらしたビジュアル面のアップデート。そして世界的なブレークまで。

現時点で正史とされているハンター・デイヴィス著『増補完全版ビートルズ』上下巻(河出文庫)から逸脱する新事実はありませんが、当時のツアマネ、レコーディングエンジニアらの裏方、そしてなによりデビュー前に解雇されたピート・ベストの肉声が聞けます。ピート・ベストからリンゴ・スターへのドラマー交替の理由は演奏技術や素行の問題ではなさそうなのですが、結局よくわかりませんでした。

世代的にロンドンパンクに夢中だった十代の僕は、物心ついたときには既に解散していたザ・ビートルズの音楽をそれほど気に留めてはいませんでしたが、1987年に初CD化された"Please Please Me" モノラル盤をバイト先のレンタル屋の割合しっかりしたオーディオで再生したとき、1曲目に収録された "I Saw Her Standing There" のポール・マッカートニーのベースラインのドライブ感と音圧には腰が抜けるほど驚いたものです。

本作のフッテージはすべて前述のエド・サリバン・ショーの有名なテイクですが、音声はリマスターされており、今回もまたポールのベースに心震えました。


2024年7月24日水曜日

街の上で

猛暑日。渋谷CINE QUINTO今泉力哉監督作品『街の上で』のリバイバル上映を鑑賞しました。

「これは私が見たかった映像。誰も見ることがないけれど、確かにここに存在している。街の上で」。自主映画の撮影風景から始まる。

主人公の青(若葉竜也)はアパートの自室で恋人の雪(穂志もえか)の浮気を問い詰めたところ、逆に別れ話を切り出された。翌日、勤め先の古着屋に若い男女の客。男がダサいので告白するときは服を選んであげると言う女は実はその男が好き。仕事終わりにThreeマヒトゥ・ザ・ピーポーの弾き語りを聴く。

翌日は、古書ビビビの店員冬子(古川琴音)から赤い表紙の『金沢の女の子』(これは架空の書籍)を買い、古着屋の店番中に美大生の町子(萩原みのり)に卒業制作映画の出演をオファーされ、撮影後の飲み会で神戸弁の衣装係イハ(中田青渚)と同席し解散後に自宅に誘われる。

小田急線の地下化に伴う線路跡の再開発中のすこし前の下北沢。スズナリ横丁珉亭、北口方面を中心にストーリーが進み、カメラが下北沢から出ることは一度もないです。僕は2000年から2014年の間、下北沢の書店フィクショネス詩の教室で教えていたのと、同店の句会と文学の教室にも参加していて、2012年から2016年は毎月Workshop Lounge SEED SHIPPoemusicaというライブイベントに出演していました。見慣れた風景の中で見慣れた感じの人たちが、困ったり悩んだり気まずかったりするのが愛おしかったです。

統一したコンセプトが存在しないことも込みで、下北沢という街はサブカルチャーのテーマパーク/ファンタジーランドなのではないでしょうか。そういう意味でこの映画の下北沢は単なる背景ではなく、下北沢という街が主人公の映画と言っていいと思います。

前クールの地上波連ドラ『アンメット ある脳外科医の日記』でお茶の間でもブレークした若葉竜也はもちろん、穂志もえか古川琴音萩原みのり中田青渚が演じるいかにも下北沢にいそうな女子たちがとても魅力的で、僕は現在も下北沢に恋しているのだな、と気づかされました。

 

2024年7月23日火曜日

お母さんが一緒

猛暑日。新宿ピカデリーにて橋口亮輔監督作品『お母さんが一緒』を観ました。

川の音と鳥のさえずりだけが聞こえる山道で温泉旅館の送迎車のタイヤが側溝にはまっている。マイクロバスを押す三姉妹。長女の弥生(江口のりこ)の眼鏡の鼻パッドには小さく折り畳んだティッシュが挟まっている。

宿は次女の愛美(内田慈)が2部屋予約した。畳が臭いだの、女湯が狭いだの、ずっと文句を言い続ける弥生。同室の三女清美(古川琴音)は何か言い出そうとするが、弥生の止まらない文句に押されて言い出せない。母と同室の愛美が「お母さんとふたりでは30分が限界」と隣室から逃げてくる。

誕生日を祝うために母親を温泉旅行に連れてきた三姉妹の一泊二日の会話劇。現在は親元を離れ都会で暮らす長女弥生と次女愛美の長年の確執、三女清美の空気の読めない婚約者タカヒロ(青山フォール勝ち)が途中から加わり、温泉宿は修羅場と化す。舞台作品TVドラマ化の劇場版編集映画という成り立ちもあり、主要な登場人物は上述の4人でほとんどの場面が温泉旅館の一室で繰り広げられます。

母親の画面には映らない暴言にキレた江口のりこの暴力的な無言の芝居がすごいです。舞台版のオリジナルキャストでもあった内田慈は地上波連ドラの脇役として見せる包容力よりも小悪魔的な邪悪さを前面に出し、終盤まで冷ややかに傍観していた古川琴音も夜が更けるにつれ発火する様にコメディセンスを強く感じました。

それでも朝が来ると並んで露天風呂に浸かる三姉妹。言葉やロジックを用いない和解は「家族」の紡いだ長い年月のなせる業なのでしょう。その場面で流れる平井真美子さんピアノロングトーンが天国的に美しいです。

 

2024年7月15日月曜日

ルックバック

曇天。ユナイテッドシネマ豊洲押山清高監督作品『ルックバック』を観ました。

舞台は月山を望む山形市の郊外。夜の住宅地を俯瞰でカメラが降り一戸建ての玄関の灯りを映す。部屋では主人公藤野(河合優実)は机に向かっている。学年新聞に掲載する4コマ漫画のストーリー構成に頭を悩ませる藤野の表情が机上左手の鏡に映る。

ある日藤野は担任教師に呼ばれ、毎週2篇連載していたうちの1枠を京本(吉田美月喜)に譲ってやってくれないか、と言われる。不登校の京本とは一度も顔を合わせたことがない。京本の第一作「放課後の学校」はストーリーこそないが小学4年生とは思えない正確な画力に藤野は圧倒される。悔しさに猛練習する藤野だが、京本には敵わないことを痛感し6年生の途中で描くことをやめてしまった。

小学校の卒業式を欠席した京本に卒業証書を届けるように命じられ、ふたりは初めて出会う。「ずっと藤野先生のファンでした、なんで描くのを止めたんですか?」と京本に言われ「漫画賞の応募作品の構想を練っている」と強がり嘘をつく藤野。雨が降り出した畦道を小躍りしながら帰り、濡れた靴下のままペンを走らせる、一連の流れが最高です。

藤野キョウというペンネームで1年かけて45ページの短編作品「メタルパレード」を仕上げたふたり。しかし十代のサクセスストーリーは長続きしない。そして訪れるカタストロフ。藤本タツキ原作漫画は全143ページ。約10年間の時間の流れとあらゆるエモーションが58分の上映時間に適切に配置され、見事な作画によって、我々の感情を揺さぶります。派手なアクションや美少女やカラフルなアイテムは必要ない。青春の情熱と含羞が眩しい。haruka nakamuraの抑制の効いた劇伴から滲み出す感傷。いい映画を観ました。

 

2024年7月12日金曜日

言えない秘密

雨天。ユナイテッドシネマ豊洲河合勇人監督作品『言えない秘密』を観ました。

「誰?」「いまピアノ弾いていたでしょう? 邪魔したならごめん」「もう弾き終わったから大丈夫」。イギリスへの音楽留学で挫折し青葉音楽大学ピアノ科3年に編入した樋口湊人(京本大我)は、取り壊しが決まった旧校舎の3階のレッスン室から聞こえる音色に惹かれ階段を駆け上がる。内藤雪乃(古川琴音)の演奏だった。

数日後ふたりは楽典の教室で再会する。授業が終わるや否や逃げるように教室を出る雪乃。猛然と追いついた湊人は先日の楽曲名を尋ねるが、雪乃は湊人の耳元で「秘密」と囁く。湊人の行動を訝しむ音大の同級生で幼馴染のひかり(横田真悠)。3人を軸に物語は進みます。

台湾映画『不能説的秘密』、悪役の登場しないファンタジックなラブストーリーをリメイクした本作のオファーに驚いたと新聞のインタビューで古川琴音さんが答えていました。映画でもTVドラマでもやや癖のある作品への出演が多いのですが、受けたからにはしっかり期待以上のアウトプットができる実力があり、日本語的には「?」と思うようなタイトルから始まって、湊人の父親(尾美としのり)の不穏な笑顔、ピアノ科教授(皆川猿時)のハイテンション、ピアノバトルのルールやクリスマスパーティの選曲、学内ショパンコンサートの楽器編成など、ちぐはぐなところはありますが、結果的には古川琴音さんのかわいい表情と声としぐさを大画面で愛でるための映画として成立しています。連弾シーンはハートウォーミングなのにエロティックだし、全衣装かわいいです。

楽器を奏でるという行為の根底には、奏者自身の感情の乗り物である身体の拡張欲求があるように感じます。より大きく、より遠く、よりエモーショナルに。特にピアノは音域もダイナミックレンジも広く、生身の人間が出せる音の領域を遥かに超えている。ストリートピアノの奏者がよく「感情表現ができる」と言うのはそういうことなのかもしれないと、この映画を観て思いました。