2026年3月14日土曜日

ひなぎく 4Kレストア版

晴天。シアター・イメージフォーラムヴェラ・ヒティロバ監督作品『ひなぎく 4Kレストア版』を観ました。

雨に濡れて回転する歯車と爆撃機の爆弾投下にミュートされたトランペットが重なるタイトルバックが終わると、主人公二人がチェックのビキニ姿で木材の壁にもたれて座り「どれも無駄、みんな無駄、全部駄目」「朽ちていく世の中で、私たちも悪くなる」と言うと、場面は草原に変わる。

金髪ショートボブにひなぎくの花冠をかぶったマリエ1(イヴァナ・カルバノヴァー)と黒髪ツインテールのマリエ2(イトカ・ツェルホヴァー)。パパ活相手の高齢男性にはヤルミラ、マルジェラなどと呼ばせている。

1966年にチェコスロバキア社会主義共和国で製作された本作は、1991年の日本公開以降お洒落ガーリィムービーとしてサブカル勢に支持されてきました。残念ながら僕は未見でしたが、今回60周年にあたり4Kレストア版が公開されたので、張り切って初日に鑑賞しました。

手足を動かすと木の関節の軋む音がする水着の二人が、草原に生えた一本のりんごの樹からもぎとった果実を食べるとアパートメントの一室という現実世界に転生するのは、旧約聖書のモチーフを男女ではなく、女女で再現している。日本公開当時、1990年代のライオットガール(米)、ガールパワー(英)ムーブメントに重ねてフェミニズムの文脈において語られました。もちろんその色彩も濃いのですが、オープニングの無音の爆撃がエンディングに爆発音を伴い再生される、また随所に社会主義体制下における抑圧の象徴と体制を挑発するような語気を感じます。

例えば「怖いのは私たちが誰からも見えていないこと」と言う主人公たちの台詞から、二人は生きていない(どんなに暴れても現実社会に影響がない)のでは、いないことにされているマイノリティの存在を代弁しているのかも、など多面的な解釈ができるのも名作たる所以でしょう。

チェコ・ヌーヴェルバーグの女性監督ヴェラ・ヒティロバは本作で発禁処分を受けると7年間の活動停止を強いられた。『地下鉄のザジ』(1960)に近いテイストですが、表現手法が雑多で前衛的。モノクロと単色カラーとフルカラー、3Dを眼鏡をかけずに観るような色彩のずれ、カットアップ、コラージュ、カラフルな悪夢のように脈絡を無視したストーリー展開、青りんごや飽食の寓意。アヴァンギャルドではあるのですが、映像にドライヴ感があるので飽きずに観られます。

当時、社会主義国チェコスロバキアでは、映画は国家予算で製作され、国の所有物だったため権利関係が複雑で、というお話がアフタートークでありました。権利関係はもちろんですが、政府の意向に沿う作品しか作れないというのはとても息苦しいだろうな、と思いました。

 

2026年3月13日金曜日

パリに咲くエトワール

曇天。109シネマズ川崎谷口悟朗監督作品『パリに咲くエトワール』を観ました。

1907年(明治40年)、横濱西洋劇場で佛國領事主催の『ジゼル』。客席から乗り出して夢中でバレリーナたちをスケッチするフジコ當真あみ)の姿があった。終演後、客席に忘れた手提げを取りに戻ったフジコは、道着姿でバレエを踊る千鶴嵐莉菜)に目を奪われる。


1912年、大戦の足音が忍び寄るパリにフジコは渡った。9区のパサージュ・ジュフロワで日本画のギャラリーを構える叔父若林尾上松也)を手伝いながら、画家になるために勉強している。街中で暴漢に襲われた際になぎなたでフジコを助けてくれた千鶴と再会する。武家の出でなぎなた道場の跡取り娘である千鶴は、道場をパリに進出させた両親について来ていたが、バレリーナになる夢を捨てられずにいた。

「自分のやりたいことをやるのが人生じゃないの?」。フジコのアパルトマンの階下にロシアからの移民で元バレリーナの母オルガ門脇麦)と暮らすピアニストのルスラン早乙女太一)に背中を押され、ガルニエ宮のオペラ座を目指して千鶴の奮闘が始まる。

クライマックスは戦時下1916年12月のオペラ座公演『ジゼル』。家父長制が絶対の時代に、夢を追ってパリに渡ったふたりの日本人少女の挑戦を、第一次世界大戦を背景にしたオリジナルストーリーで描こうという気概は評価したいですが、物語はバランスとまとまりを欠いていると思います。主人公フジコが途中から絵を描かなくなり、千鶴のサポート役に回ってしまう。マティスミュシャモンドリアンなど、当時気鋭の現代美術作家たちの才能に圧倒されて、と涙ながらに訴えるが、エンドロールの絵画作品の列挙だけでは薄く感じました。

画商の叔父のジブリ風味のカーアクションはちょっとやり過ぎですが、キャラクター造形はとてもよく、「パリのリストランテでは」などと言わせ胡散臭さをさりげなく示唆しています(リストランテはイタリア語)。

當真あみさん嵐莉菜さんの『ちはやふる -めぐり-』コンビは、9歳分の成長を一所懸命表現していて、とてもがんばったと思います。なぎなたの殺陣は小気味よく、パリ国立高等音楽院出身の服部隆之が手掛けるアコーディオンと管弦楽の劇伴、ベルエポック期のパリの街並みと絢爛豪華なオペラ座の外観内装をはじめとした背景美術が素晴らしかったです。

 

2026年3月8日日曜日

花緑青が明ける日に

ミモザの日。ユナイテッドシネマ豊洲四宮義俊監督作品『花緑青が明ける日に』を鑑賞しました。

色鉛筆で描かれた海と空。足元の波紋と濡れた足音、油蝉の声。美大生になった式森カオル(古川琴音)が真夏の山に穿たれた坑道を抜けるとそこは海中で一頭の鯨が泰然と泳いでいる。

4年前、制服のカオルは下校しても自宅ではなく帯向煙火店の住居兼工場に帰る。赤錆びたベランダには制服を膝までまくったチッチこと帯刀千太郎(入野自由)。弟の敬太郎(萩原利久)が部屋を飛び出して屋根を下る。階下の工場では父親榮太郎(岡部たかし)が市職員と隣近所の住民から立ち退きを説得されている。婿養子の榮太郎は花火師だったが、数年前に妻を亡くし、花火工場もその後廃業していた。市職員に殴りかかる敬太郎とそれを止める榮太郎。カオルの両親も立ち退きを勧めに来ていた。

4年後、東京の美大に進学し、プロジェクションマッピングの新進アーティスト兼インフルエンサーとなったカオルは、二浦市役所に就職したチッチに連れられて網代に帰る。翌日の8月31日に帯刀煙火店は行政代執行により更地にされる。煙火店の前の入り江は埋め立てられメガソーラーが設置されていた。水軍の末裔である失踪した父榮太郎が残した幻の花火シュハリは、猛毒の花緑青を使う500年前に水軍が用いた狼煙。その花火を上げるために敬太郎は4年間を準備に費やしていた。

「花火なんてたとえ世界で一発も上らなくても誰も困らないんだよ」「どんなことにだって終わりは来るよ。問題は終わらせ方だよ」。再開発により失われる伝統工芸という紋切型のテーマと思いきや、映画中盤で示される煙火店廃業の経緯はもっと残酷なものでした。単純な二項対立とならず、物語に広がりを与えているのは兄チッチの存在。開発を推進する公務員でありながら、弟の心情も理解し、且つ板挟みで葛藤することなく、両者の立場を内面化する。

日本画を主たる表現手段とし『君の名は』や『この世界の片隅に』にも関わった四宮監督の作画はあらゆるシーンが美しく、一瞬たりともスクリーンから目が離せません。アメリカデイゴ、ノウゼンカズラ、アザミの花。蝉の死骸、蟹、カマキリ。蜩の声。極端に強調された遠近法と前景の遮蔽物に切り取られた表情は歌川広重の『名所江戸百景』を思わせる。世界のアニメの潮流が3Dに完全移行した現在も、セルタッチの平坦な色彩にこだわる日本のアニメーション表現そのものが浮世絵的ではあります。敬太郎が作った段ボールのジオラマが実写+クレイアニメになるのも面白かった。

劇場アニメ初挑戦の古川琴音さんは、本職の声優さんのように随所に抑揚をつけるような演技をしませんが、それがカオルの性格によく合っていると感じました。蓮沼執太さん劇伴もよかった。imaseさんの編曲もしていて、聞こえてきたヴィオラは手島絵里子さんかな、と想像しながらエンドロールを聴きました。